日本歴史地名大系 「篠塚村」の解説 篠塚村しのづかむら 群馬県:藤岡市篠塚村[現在地名]藤岡市篠塚東は上栗須(かみくりす)村、西は本動堂(もとゆるぎどう)村、南は下大塚(しもおおづか)村、北は中(なか)村と森新田(もりしんでん)村に接する。永禄六年(一五六三)四月一二日に安中丹後守に与えられた地に「篠塚」がある(「北条氏照宛行状」市谷八幡神社文書)。寛文郷帳では前橋藩領と幕府領の二給。元禄郷帳では幕府領が二分され旗本大久保領と同牧村領となり三給。後期の御改革組合村高帳でも同じ、家数九六。寛文七年(一六六七)の年貢割付状(設楽文書)によると田七反九畝余・畠三九町七反余(うち下畠三五町余)で、一二二貫文余を納める。石代のうちに大豆四石八斗があった。中山道新町(しんまち)宿(現多野郡新町)の助郷高三六〇石を勤め(享保九年「新町宿助郷帳」田口文書)、文化一二年(一八一五)の尾張藩主帰国の際には御用物御継立場に人足五四人を出している(「新町宿人馬寄高并継立書上帳」内田文書)。 篠塚村しのづかむら 群馬県:邑楽郡邑楽町篠塚村[現在地名]邑楽町篠塚狸塚(むじなつか)村の西に位置し、西は下小泉(しもこいずみ)村・上小泉村(現大泉町)、南は新福寺(しんぷくじ)村・福島(ふくじま)村・赤岩(あかいわ)村・舞木(まいぎ)村(現千代田町)、北は石打(いしうち)村・中野(なかの)村。小泉街道が村中央を東西に走る。永禄六年(一五六三)一〇月、篠塚郷内一〇貫文の地が石打(いしうち)の給主北爪助八に宛行われている(同月二四日「長尾景長宛行状」北爪重一氏所蔵文書)。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。 篠塚村ささづかむら 愛知県:海部郡立田村篠塚村[現在地名]立田村四会(よつえ) 篠塚西は脇野(わきの)新田村、北は下一色(しもいしき)村に接する。「徇行記」によれば、概高一〇八石余は一円蔵入地。田は二町八反余、畑は四町二反一畝余。「寛文覚書」に戸数一一、人数五七とある。「徇行記」は「村立アシク細民ハカリ也、貧村ナリ、田面ハ村西ニアリ畠ハ村落ノ中ニアリ、其内堤外ニ高田村ノ控地アリ、村堤長二百二十間アリ川巾モ二百二十間ホトアリ、川向ハ津島神領ナリ」と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by