簗村(読み)やなむら

日本歴史地名大系 「簗村」の解説

簗村
やなむら

[現在地名]上三川町やな

川の右岸低地に位置し、東は南東流する田川を境に川中子かわなご村・下蒲生しもかもう村。寛文九年(一六六九)知行割(伊沢吉則文書)には、上下簗村とみえる。慶安郷帳に村名がみえ、田高四四六石余・畑高一三八石余。近世初めは宇都宮藩領。慶長六年(一六〇一)から幕府領、同九年から常陸麻生藩領、元和八年(一六二二)から宇都宮藩領、貞享二年(一六八五)から幕府領、元禄五年(一六九二)から壬生藩領、同八年から幕府領、同九年に幕府領の一部が旗本小出領となる(享和二年「代々領主覚」伊沢吉則文書)。寛延三年(一七五〇)には旗本小出・井上の二給(「石橋宿助郷村出入済口証文」同文書)、改革組合村では幕府領と旗本小出・井上の三給とみえ、幕末に至る。万治二年(一六五九)には田高五一一石余(うち麦田一七九石余)・畑高一四九石余。畑には大角豆・芋・菜・大根などが作られ、秣場は地内の簗谷内・今田谷内などにあった(貞享三年「村明細帳」伊沢吉則文書)


簗村
やなむら

[現在地名]小山市やな

鬼怒川流域、西から南に川が流れる。東は福良ふくら村、南から西は下総国、北は高橋たかはし村。梁村とも書く。中世には結城氏の支配下にあった。天正一三年(一五八五)五月七日の某朱印状(高椅神社文書)に「やな」とみえ、結城晴朝と推定される人物から高椅たかはし神社造営以外の勧進を禁止されている。慶安元年(一六四八)不動ふどう院宛徳川家光朱印状写(遠井謙次郎文書)では「下総国結城郡簗村」とある。慶安郷帳では下野国都賀つが郡に記され、田方四五九石余・畑方九二〇石余、旗本坂部領。元禄郷帳では旗本堀田領。旧高旧領取調帳では上簗村七六七石余・下簗村八四二石余・簗村新田二七石余がみえ、上下の簗村は堀田領、簗村新田は幕府領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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