八幡神社(読み)はちまんじんじや

日本歴史地名大系 「八幡神社」の解説

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]甲府市宮前町

宮前みやまえ町のほぼ中央部にある。祭神は誉田別命・息長帯姫命・姫大神。旧県社。府中八幡と通称される。石和(武田)五郎信光によって鎌倉期に鎌倉鶴岡八幡宮から勧請された石和いさわ八幡神社を、永正一六年(一五一九)に武田信虎が躑躅が崎つつじがさき館に移転するにあたってその西側に隣接する地に勧請し、府中八幡宮とした(「甲斐国志」など)。その場所は館の西、現在の相川あいかわ小学校の敷地で、今も八幡神社の小祠が残り、近世初期の甲州古城勝頼以前図(恵林寺蔵)にも「古八幡」と記されている。当社は武田氏によって社殿造営をはじめ神社組織の発展・整備が図られ、林部はやしべ(橋立明神、現一宮町甲斐奈神社)に替わって甲斐国惣社としての地位を占めることになる。弘治三年(一五五七)一二月二日武田晴信は社中条目(今沢克昌家文書)を八幡宮神主に与えており、社壇の造営を粗略なく実施することや、宮中の掃除を懈怠なく毎日二度ずつ行うこと、また板葺の門・亭や塀を造作することを命じ、併せて徳役銭を免除している。この神主とは今沢氏のことで、もと西郡三輪みわ神社(現甲西町神部神社)の神主であったが、晴信によって抜擢されて当社の神主になったという(甲斐国志)

永禄三年(一五六〇)八月二五日の武田信玄社中条目写(甲州古文書)では、武田たけだ八幡(現韮崎市)くぼ八幡(現山梨市大井俣窪八幡神社)、石和八幡、一宮(現一宮町浅間神社)、二宮(現御坂町美和神社)、三宮(現玉諸神社)、東郡熊野(現塩山市)、林部之宮、市川之御崎いちかわのみさき(現三珠町表門神社)、西郡三輪の一〇社の神主が当社への勤番を免除されており、一〇社を除く甲斐の国中くになか地域の主要な神社の禰宜衆は当社に参勤することが義務づけられ、国家安全と武田氏の武運長久の祈祷を命じられた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]米子市東八幡

北西流する日野川北岸、字屋敷やしきにある。主祭神は誉田別尊、ほかに足仲彦尊・息長足姫尊など五柱を祀る。旧郷社。古くは相見あいみ八幡・相見庄八幡宮などとよばれ、近世には馬場ばば八幡とも称された(伯耆民談記)。創建の時期について文政一一年(一八二八)書写の当社八幡本記(内藤家文書)には、現在地より南、日野川左岸の八町四方の社地に養老四年(七二〇)豊前宇佐八幡宮より勧請されたとする。社地の位置はそのとおりであろうが、年代は信じがたい。明和五年(一七六八)の当社書出(同文書)には、年代判読のできる最古の棟札は天永二年(一一一一)のもので、さらに古い三枚は年紀文字不明としている。平安時代中期以後当地に勢力をもった武士により勧請されたと推定され、あるいは南方長者原ちようじやはら(現岸本町)一帯を本拠としたとされる紀氏により、山城石清水いわしみず八幡宮より勧請されたのであろうか。

当社は古代の会見あいみ郡会見郷・巨勢こせ郷の地に成立したとみられる相見庄(八幡庄)の鎮守であったらしい。中世当社の祭祀をつかさどった巨勢氏は相見庄の庄務にもかかわっていたと考えられる。同氏は紀氏の系列に連なり、巨勢郷を本拠とする一族で、のち相見氏を名乗った。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大垣市西外側町

旧大垣城外堀の水門すいもん川が西流し、直角に南流する地点の北西に位置する旧県社。大垣八幡宮ともいい、明治初年まで大垣八幡社ともよばれた(大垣市史)。祭神は応神天皇・神功皇后・比神。正慶―建武年間(一三三二―三八)頃、東大寺領大井おおい庄一八郷の総氏神として奈良東大寺の鎮守手向山たむけやま八幡宮を大井庄内藤江ふじえ莢之森さいかちのもりに勧請した(新撰美濃志)。観応二年(一三五一)六月日の大井庄内買得相伝田畠坪付(東大寺図書館蔵)に「漆段 大井庄八幡宮御神楽田」とみえる。宝徳三年(一四五一)六月、遮那しやな院乗済が現在地に遷座し、以来、同院は累代別当職となる(「神社明細帳」県立歴史資料館蔵)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]宮之城町湯田

川内せんだい川東の湯田馬場ゆだばばにある。湯田八幡・若宮八幡などとも称される。現在の祭神は応神天皇・仁徳天皇・玉依比売命・神功皇后・島津金吾歳久公。かつては玉依姫・応神天皇・神功皇后・武内宿禰を祀っていた(三国名勝図会)。旧村社。社伝によれば、寿永年中(一一八二―八五)に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請してけどう院惣鎮守としたという(年月日欠「薩摩宮之城真蓮寺鐘銘」答院記)。一般には水引みずひき(現川内市)の新田宮の末社とされ、元応二年(一三二〇)五月日の薩摩八幡新田宮雑掌重訴状案(同書)には「当宮末社答院若宮」とみえる。当社は新田宮の放生会役を勤めなかったため、新田宮側は正和四年(一三一五)に時吉孫太郎入道と柏原地頭代を訴え、幕府の御教書を得た。しかし両人が幕府の命に従わないため、元応二年再度訴え、幕府の沙汰に従わない両人を成敗するよう言上している。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]津島町高田

釈迦しやかもり山麓の南側にあり、岩松いわまつ川がその南を流れる。祭神は誉田別命(主神)ほか配神四柱。旧郷社。

当社の由緒は古いが、創建については明らかでない。「宇和旧記」に

<資料は省略されています>

と記されている。このことは、越智氏の本拠が祝森いわいのもり(現宇和島市)、高田村から岩松村てんもり城へ移るに伴い、当社も移転したとも考えられる。当社と津島殿越智氏は密接な関係にあり、越智氏は当社の施主であった。「宇和旧記」によると天文一三年(一五四四)越智通孝が当社を再建、また天正一〇年(一五八二)には越智通顕が再建している。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]山香町野原 八幡森

高取たかとり台地の西麓にあり、祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。旧県社。八幡森やわたもり八幡社と通称し、八旗やわた八幡・八旙やわた八幡とも書いた。近世には日出藩領山香郷の産土神。社伝によると古代の隼人攻めにまつわる創祀伝承がある。その後大友能直が建久七年(一一九六)に社殿を再建、永享元年(一四二九)大友持直が改修し、大永二年(一五二二)に大友義鑑が社殿を再営したという。延宝八年(一六八〇)日出藩三代藩主木下俊長が神殿を造替、元禄一〇年(一六九七)には拝殿を改築し、合せて社領四石八斗を寄進した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]能代市柳町

やなぎ町の中央から南に入った町屋の裏側にある。住吉すみよし神社ともいう。祭神は八幡大神・住吉大神・事代主神・大物主神など。能代草創の頃の八幡社・夷社と元禄一二年(一六九九)成立の住吉社の三社が境内にある。旧県社。

野代山王社由来記に「天文二年、清水治郎左衛門政吉(中略)山王権現を勧請し、姥懐の東北、川中島の八幡社の側に一宇を造立す、八幡は田村将軍北夷征伐の時勧請」とあって、能代草創の頃の産土神である。

代邑聞見録」には、八幡社は天正年間(一五七三―九二)愛宕あたご山に山王社とともにあったが、慶長年間(一五九六―一六一五)中島なかじま(現能代港)へ移したとある。夷社は寛文年間(一六六一―七三)大図役(鮭網役請負)野口平左衛門が勧請し、延宝年間(一六七三―八一)再興したが、元禄七年の地震で破壊され、大森山の下へ遷座し、同九年に般若野はんにやの(後谷地のことをいい、現社地か)へ社地が与えられて遷座した(同書)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]美山町大字北

きたの北東部山麓に鎮座。南前方に由良川を望む。祭神応神天皇・素盞嗚尊・建御名方神。旧村社。

社伝によれば、延久三年(一〇七一)みなみ上宮かみみや山に祀られた八幡大明神の社殿が永禄一〇年(一五六七)の洪水で流失したため、元亀元年(一五七〇)北の久保くぼ屋敷の一宮大明神境内に移し、さらに諏訪明神とともに三社を合祀し八幡宮として現在地に再建されたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]宇和島市伊吹町

須賀すが川中流域、八幡河原を前にする神社。伊吹いぶき八幡とよばれる。祭神は誉田天皇・田心姫尊・湍津姫尊・市杵島姫尊・大帯姫尊の五神。旧郷社。「宇和旧記」に

<資料は省略されています>

と記している。社記によると、和銅元年(七〇八)宇佐八幡宮から大浦の御所おおうらのごしよ崎に勧請した祭神を、同五年に現在地に遷座したという。源義経が伊予守になった時、社殿を造営し、家臣の鈴木三郎重氏に命じて社前に伊吹の木(ビャクシン)を二本植えさせたという。

また「宇和旧記」によると、文明三年(一四七一)に宗秀という人が撞鐘を寄進したが、戦国期に土佐の長宗我部勢に奪われて横吹よこぶき坂(現仙波せんばが峠)で破壊され、寛永一八年(一六四一)に竜華山等覚とうがく寺の南山が再興した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]児玉町児玉

児玉市街を通る国道二五四号の東側に鎮座する。旧県社で、祭神は誉田別命・姫大神・神功皇后。社伝によると、康平六年(一〇六三)源義家が前九年の役から凱旋の際、山城石清水いわしみず八幡宮から勧請したという。これに対し、「風土記稿」は前九年の役が義家の父頼義の出兵であること、頼義が同年鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、永保元年(一〇八一)に義家が同社に修理を加えたとされることから、当社はその別宮として本社を襲い、康平期の勧請との説を唱えたものであろうとしている。現在当神社では、永承六年(一〇五一)源頼義・義家が奥州安倍氏征討の途中に金鑽かなさな神社(現神川町)に参詣し、その際当地に斎場を設けて戦勝を祈願、康平六年の帰陣の際に社殿を建立して八幡宮を勧請し、「東石清水白鳩峯」と称したのが始まりとしている。鎌倉時代には児玉党の児玉時国が深く当社を崇敬し、社殿を再造して代々信仰したという(八幡神社社誌)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]本荘市谷地町

谷地やち町の北端にあり、祭神は誉田別命・息長足姫命・玉依比女命。旧県社。

文永五年(一二六八)八月赤尾津あこうづ(現由利郡岩城いわき亀田かめだ大野おおの村に勧請されたが、慶長一二年(一六〇七)当地に遷座し、元和二年(一六一六)楯岡豊前守満茂が社殿を建立、貞享四年(一六八七)六郷阿波守政晴によって再建、本荘の総鎮守となったという。社殿の建替えは元禄五年(一六九二)、延享三年(一七四六)、宝暦九年(一七五九)に行われた(本荘町志)

明治六年(一八七三)郷社、同一六年県社となる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]舞鶴市字河辺中

河辺中かわなべなかの東北端、そら山の最西南山麓に立地し、老樹の繁茂する森の中にある。祭神誉田別尊・猿田彦尊。旧村社。

草創時期については諸説あって判然しないが、当社に伝わる棟札の一に天養元年(一一四四)の年紀をもつものがあり、この時にはすでに存在したとするのが一番古い。

<資料は省略されています>

ただしこの棟札の真偽については異論がある。また延慶元年(一三〇八)の棟札も残るというが確認できない。更に、「岩津森大明神(社カ)事」として「正和弐年歳次癸丑十月廿八日棟上卯時」という棟札もあり、至徳元年(一三八四)の年紀をもつ棟札によればこの時上棟遷宮している。また神社本殿前に石灯籠があり、その竿に「貞和三年八月廿五日」の銘文があり、当社蔵大般若経の一に「丹後国加佐郡志楽庄河部村岩津森常住也文亀元年十月十九日」「文亀元年十月十九日是買取也」という奥書がある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川之江市川之江町 亀島

享保六年(一七二一)の川之江村明細帳に「正八幡宮宝殿一丈一尺二間四尺高サ一丈六尺」とあり、さらに中殿・拝殿・正八幡宮門・鐘撞堂・神輿蔵・護摩堂・客殿・庫裏などがあり、境内に正八幡宮別当大岡山遍照院宝積ほうしやく寺の建物があったと記され、大規模なものであったことがわかる。主祭神は足仲彦天皇・誉田別天皇・気長足姫命。旧県社。

社伝によると推古天皇六年に、豊前国宇佐八幡宮(現大分県宇佐市)から御分霊を切山きりやま(現金生町山田井)に勧請、治暦元年(一〇六五)に伊予守源頼義が畠山はたけやまに奉遷したとされる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]芦辺町箱崎 釘の尾触

根柢もとのかぶ山に鎮座。古くは海裏あまうら宮・箱崎はこざき八幡宮・八幡大神海宮・磯山いそやま権現と称した。当社を含めた島民の巡拝があり、七社参りとよばれる。旧村社。祭神は豊玉毘古命・玉依毘売命・品陀和気命・仲日売命・息長帯日売命・帯仲日子命・天月神命・天比登都柱命・高皇産霊神。延暦六年(七八七)男岳おんたけ山に創祀されたのが始まりと伝え、のち上里の東屋敷かみさとのひがしやしき下里の辻しもさとのつじ新庄しんじよう(現勝本町)宮地みやじ山などと鎮座地を移したという。「三代実録」貞観元年(八五九)正月二七日条にみえる「月読神」を当社に比定する説があり、同神は従五位下から従五位上になっている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]板野町下庄 栖養

下庄しものしようの中心部、栖養すがいの里とか栖養の森と通称される場所に位置する。旧郷社。応神天皇を主祭神とし、猿田彦命など一〇柱を合祀する。創建年代は不詳。寛政五年(一七九三)の阿波国十郡中神社書上旧記書抜(徴古雑抄続篇)によれば、当地にはもと地主権現の小祠があったが、土御門上皇が改めて八幡宮を勧請したのが当社の始まりという。上皇は当地に行在所を設けたとも伝えられる(阿波志)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]宮崎市島之内

宮本みやもとにある。祭神は足仲彦天皇・息気長足姫命・誉田天皇。旧村社。養老二年(七一八)筑前箱崎はこざき(現福岡市東区)から勧請したと伝え、広原ひろわら八幡と称されたという。建久図田帳に豊前宇佐宮領として広原庄一〇〇町とあるが、同帳の応永二八年(一四二一)二月二七日の追記には広原社一二〇町とみえ、広原社と書かれたのは広原の多くが社領となっていたためとも考えられる。当社はこの広原一二〇町の大地主神と称したといわれ(宮崎県史蹟調査)、広原庄設置の際、宇佐宮を勧請したのが起りとも伝える。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によると、八幡大宮司分として広原六〇町のうちに御供田三段・正月十五日もちかひ田一段・油田一段・朝拝田一段・二月田二段・三月田一段・五月田二段・御祓田二段・馬場一段・やふさめ田二段・霜月田二段など合せて田数二町三段・御手水屋敷一ヵ所があり、ほかに上恒久かみつねひさの内に一段などがあった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]北区山田町中

志染しじみ川北岸の山際に鎮座。通称六条ろくじよう八幡宮。祭神は応神天皇。旧郷社。近世丹生山田たんじようやまだ庄一三村の総鎮守で、境内の三重塔・薬師堂がかつての神仏習合の姿を伝える。元禄五年(一六九二)の寺社御改書上帳(田中家文書)によると、当地はもともと神功皇后行宮を応神天皇が再営した霊地で、のち基灯が草庵(円融寺)を営み、啓示を受けて長徳元年(九九五)村人らと宝殿を造営したが、保安四年(一一二三)源為義が山田庄の領主となり、京六条にあった左女牛さめうし若宮八幡宮を再勧請、六条八幡宮と称するようになったという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]高梁市和田町

松原まつばら山に鎮座。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱、相殿に猿田彦命・佐佐森彦命を祀る。鎮座地は近世には松山西まつやまにし村に属し、同村および松山東村の一部、松山城下六ヵ町(本町・下町・南町・新町・鍛冶町・東町)の産土神であった。

社伝によれば貞観年中(八五九―八七七)山城国石清水いわしみず八幡宮の分霊を勧請したという。歴代松山藩主は松山城の鎮守として当社を崇敬、社殿の修改築は藩費によって支弁された。もと神田二町を有していたが、元和年中(一六一五―二四)に藩主池田長幸はこれを没収し、毎年社領米五石を寄進、以後歴代藩主も同額を寄進した(備中誌)。貞享三年(一六八六)火災により社殿を焼失。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]八幡浜市矢野神山

愛宕あたご山麓に鎮座。祭神は誉田天皇・大帯媛命・田心媛命・湍津媛命・市杵島媛命。矢野やの郷三三ヵ村の総鎮守。旧県社。

社記に「もと大清水八幡宮、或は大清水蜷八幡宮と称し、元正天皇養老元年八月十七日、御鎮座」といい、「愛媛面影」に「社司云養老元年丁巳八月十九日の鎮座にして万葉集によめる矢野神山是なり」と紹介する。「宇和旧記」は「開基不知」とし、次の伝承を記す。昔八幡浜浦の干潟に夜な夜な光る物があり、地下人が調べると「ほうじょう」というものが多く集まり、神体を持ち上げたので崇敬し、勝地を詮議しているうちに神体は消えうせた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]中井町遠藤

中村なかむら川右岸、字御所宮ごしよのみやにある。祭神は誉田別命・仲哀天皇・神功皇后など。古くは御所(五所)八幡宮と称した。旧郷社。現中井町域の旧井口いのくち村を除く一四ヵ村と旧赤田あかだ村・高尾たかお(現大井町)の鎮守。社伝では保元二年(一一五七)僧義円の勧請といい、別当安寿あんじゆ寺があった。

「風土記稿」には長禄元年(一四五七)の拝殿并鐘楼堂、文明一三年(一四八一)の建立、文亀元年(一五〇一)の造営、永正一〇年(一五一三)の修理、享禄三年(一五三〇)の造営、天文二四年(一五五五)の造営の棟札模写を所載し、嘉禄元年(一二二五)・嘉暦二年(一三二七)の棟札もあったが焼失したという。

八幡神社
やわたじんじや

[現在地名]多賀城市八幡三丁目

宮内みやうちにあり、近世には八幡村内に八幡社が二社あったため、当社をおき八幡、もう一社をうち八幡とよんで区別した(安永風土記)。祭神誉田別尊・息長足姫尊・比売神、旧郷社。近世の別当寺は真言宗般若寺。「八幡村安永風土記」般若寺書出によると、天喜―康平年間(一〇五三―六五)八幡太郎義家が東夷征討の時、を奉納したのにちなみゆがけ八幡というようになり、神領として数町を寄進されたといい、社地はもと天童氏居館の裏手にあたる古館ふるだてにあり、四方四〇間の平地にあったが、建保年中(一二一三―一九)平右馬助(景家、八幡介)が居館を築いたため、宮内に移ったといわれている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]倉吉市余戸谷町 四十二丸

北流する小鴨おがも川右岸、東の打吹うつぶき山との間にある丘陵に鎮座する。旧村社で、祭神は応神天皇ほか五神。「伯耆民談記」に久米くめ八幡とみえ、文明(一四六九―八七)頃の造立、のち尼子氏家臣の伊藤加賀守が再興したとある。同書は鎮座地を小鴨川左岸の生田いくた村と記す。摂津生田神社(現兵庫県神戸市中央区)の分霊を勧請したと伝え、鎮座地を生田森と号したのが生田村の由来とされる。しかし、生田村は享保一六年(一七三一)鹿首かのくび村が改称したものとされ(同一九年鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」)、天文一三年(一五四四)の洪水で同村が流失したため現在地へ移転したらしい。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]徳島市伊賀町一丁目

国瑞彦くにたまひこ神社の南、山東麓にある。主祭神は応神天皇・仲哀天皇・仁徳天皇。旧郷社。もと伊予国河野こうの(現愛媛県北条市)にあり、天文年間(一五三二―五五)に河野氏一族の争いを避けた者たちが阿波に逃れ来て、氏神の神霊をかくれ(瑞巌寺山)に祀ったと伝える(最近文明史料)。その後瑞巌ずいがん寺が隣接して開かれたことから社地移転を余儀なくされ、元禄一〇年(一六九七)に南方の現在地に移ったという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]奈良市東九条町

大安だいあん寺の南東に鎮座。旧村社。もと大安寺鎮守としてその寺域内にあり、南に東塔があった。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。辰市たついち八幡宮のほか、子安こやす八幡とも称し、安産祈願の神とされる。「七大寺巡礼私記」に「八幡大菩薩廟(社カ)西南二方有門戸、斯神殿者在東塔之北」とあり、斉衡二年(八五五)行教が宇佐うさ八幡神を勧請したと記す。また「建久御巡礼記」「諸寺建立次第」によると、八幡大菩薩は大安寺石清水いわしみず房に奉置、のち山城男山に移したとされる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]宇和町東多田

岩崎いわさき山にあり、鬱蒼とした樹林に囲まれる。祭神は田心姫命・湍津姫命・誉田天皇・市杵島姫命・大帯姫命の五神。旧郷社。

古くは岩野いわの郷の郷民のすべてを氏子とし、現明浜あけはま町狩浜へ宇佐うさ(現大分県宇佐市)から八幡大菩薩が上陸し、東多田ひがしただ村へ鎮座したと伝えられる。「宇和旧記」に「八幡宮、開基不知、岩野郷中不残氏子之処、鎌乃倉より大峠川切、宇和口と云より古藪の宮まての分、八幡浜の八幡宮へ被附候由、此八幡大菩薩の舟、狩浜浦へ着申由、依之彼浦も岩野郷の内なり」とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]美山町中手 大門

中手なかんての南西方山麓の字大門だいもんに鎮座する。かんば八幡神社とも称する。「延喜式」神名帳に載る大野おおの郡九座のうち「カムハ神社」(カニハとも)と伝える。旧村社。祭神応神天皇。文化一〇年(一八一三)の「深山木」によれば、往古は池田いけだ(足羽川)のほとり、川原こうばら村の北、山の尾さきにあって、応神天皇・神功皇后・武内大臣の三柱を祀っていたが、その後、天皇を中手、皇后を東河原ひがしこうばら、大臣を野津又のつまたに分祀したという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大淀町大字檜垣本小字定成

檜垣本ひがいもと集落の北方台地の森の中に鎮座。境内三〇一坪のほか周辺に四町一段五畝余の社有地をもつ。祭神息長足姫おきながたらしひめ命・誉田別ほんだわけ命・大鷦鷯おおさざき命。「大和志」の八幡神祠に「有四座一座在檜垣本、北荘七村相共祭典」とある。寛保元年(一七四一)浄見じようけん(現大淀町)法誉が著した「鎮守八幡宮縁起」(竹中家蔵)には、当社が近郷七ヵ村(阿知賀・下市・新住・下淵・土田・越部・新野)の惣社であったことや、吉野川が洪水の時、下市しもいち(現奈良県下市町)丸山まるやま岳から檜垣本幣振の合図で当社を伏拝したことなどが記されている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]吉田町立間

立間たちま村を本村ほんむら長谷ながたにに二分する山稜の南端南山みなみやまに位置し、周囲は林に覆われている。主祭神は多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐都比売命・仲哀天皇・誉田天皇・息長帯比売命。大正年間(一九一二―二六)の合祀で他に九神を祀り、境内末社には和霊われい日吉ひよし・石城姫の各神社がある。旧郷社。

社伝によると創建は治承年間(一一七七―八一)である。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]静岡市八幡山

八幡やはた(六三・七メートル)の南下に鎮座する。祭神は誉田別命。旧郷社。神護慶雲三年(七六九)に創建されたと伝え、源義家が奥州征討の際に修造を加えたという(「駿河記」など)。延応元年(一二三九)一〇月一〇日、憲信が有渡郡八幡やはた村に寄進した磬は当社のものとされる(修訂駿河国新風土記)。仁治元年(一二四〇)七月から一〇月にかけて書写された五部大乗経が「有度八幡山王」に奉納され、願主は憲信で、駿河国惣社別当とある。

八幡神社
つじはちまんじんじや

[現在地名]吉舎町辻 宮平

小字宮平みやびらの比高約五〇メートルの丘の頂上に鎮座する。帯中日子命・息長帯比売命・品陀和気命を祀り、明治四四年(一九一一)村内の小社を合併した。旧村社。

口碑に天長八年(八三一)の勧請で、もと三谿みたに郡三八ヵ村の惣氏神であったという。大永年間(一五二一―二八)火災にかかり、旧記宝物など一切を失う。現在も向江田むこうえた(三次市)をはじめ旧三谿郡の各地の八幡宮は辻八幡宮から勧請という伝承をもつものが多い。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]穴吹町三島

小島おしま集落の南部にある。誉田別命・息長足姫命・玉依姫命・大己貴命・素佐之男命・天児屋根命・八千矛命など一二神を祀り、旧村社。明治初年に火災に遭い社殿を焼失、このときに古記録類も失い、創建の経緯なども不詳である。明治二一年(一八八八)に拝殿、同四二年に本殿を再建している。「阿波志」には「八幡祠在小島村」とみえる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]相馬市坪田

すずみおかに鎮座することから、涼ヶ岡八幡神社といわれる。旧郷社で、祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫。当社が鎮座している集落名から、八幡やわたの八幡としても親しまれている。建武元年(一三三四)北畠顕家の属将白川道忠(結城宗広)の創建といわれ、御旗八旒を神前に埋めたことから八旗はつき八幡とも称した。永享七年(一四三五)一一月三〇日に白川道忠の子孫藤原朝臣氏朝(結城氏朝)が大檀那となって再営したと伝え、天文一二年(一五四三)に相馬顕胤が宇多うだ郡に出陣するにあたって祈願を行い、効験があったと伝えることから、以後相馬氏の保護を受けた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]勝北町山形

山形仙やまがたせん中腹に鎮座。祭神品陀和気命など、旧郷社。天平一〇年(七三八)豊前宇佐八幡宮より勧請と伝え、「東作誌」にみえる八幡宮である。寛永一六年(一六三九)には上宮八幡宮と称され、神楽米は三分の一が神主分、三分の二が神子分であった。延宝元年(一六七三)新野山形にいのやまがた村免状(新野村史)では一石五斗が八幡宮破損引となっている。貞享四年(一六八七)には宮山の竹木・下柴の刈取一切を禁じているが、たびたび社林の境界などをめぐる紛争が起こっている(元禄一一年「一札之事」同書)。社家と村方との紛争もたびたびみられ、享保七年(一七二二)九月二五日の祭礼での社家・氏子の席次などをめぐって社家から村方に宛てた口上書(同書)が残る。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]奈良市中山町

通称外山とやま集落中央に鎮座。旧村社。祭神は誉田別ほんだわけ命・天児屋根あめのこやね命。本殿前の永禄九年(一五六六)の四角形石灯籠に「奉寄進大川八幡宮為二世安楽」と刻され、大川おおかわ八幡宮とも称した。大川は外山の旧名。社伝ではもと富雄とみお二名にみよう(現奈良市)にあったそま明神を移したというが、当地など秋篠あきしの寺周辺は平安時代に山城石清水いわしみず八幡宮領秋篠荘の内であり、それに関係して八幡社を祀ったとも考えられ、正和四年(一三一五)一一月七日、秋篠山をめぐる西大寺・秋篠寺の相論で、秋篠寺側が大川・忍熊おしくまに発向、堂舎・神殿を破壊した(年月日未詳「西大寺僧訴状」西大寺文書)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]御嵩町顔戸 大平

顔戸ごうど北部の丘陵麓にある。祭神は八幡大神。旧郷社。社伝によれば延長八年(九三〇)山城石清水いわしみず八幡宮から分祀して創建され、康平六年(一〇六三)源義家により再建されたという。安和年間(九六八―九七〇)の創建とも伝え(濃飛両国通史)、「濃州徇行記」などは源義家の創建とする。おそらく石清水八幡宮領明知あけち庄の鎮守として勧請されたのであろう。長禄五年(一四六一)三月九日の社殿葺替棟札(当社蔵)には大願主として「権少僧都気□」、地頭代官として「妙椿上人」、そのほか「可児□衛門尉」などの名がみえる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]真正町十四条

村之内むらのうちに鎮座する。創立年代未詳。中世には八幡宮・白山権現・天王が併祀され、船木庄十四条じゆうしじよう(村)のほか、その南に位置する十五条じゆうごじよう十六条じゆうろくじよう十七条じゆうしちじよう十八条じゆうはちじよう十九条じゆうくじようの六郷(村)の総社であったと伝え、享禄三年(一五三〇)の洪水で社殿が失われたが、その後現在地に再建されたという。永禄五年(一五六二)織田勢と斎藤勢の軽海かるみ合戦で兵火に罹り、同九年他の五村からの願いで、八幡宮は十五条・十六条、白山権現は十七条・十八条、天王は十九条の各村へそれぞれ分祀された(年欠寅八月十四条村氏神勧請申渡書)。このため当社は十四条村だけの鎮守となり、文禄二年(一五九三)本殿・拝殿・神楽堂を再造したと伝える。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]新宿区筑土八幡町

筑土つくど(築土山)に鎮座し、筑土八幡宮の名で知られる。筑土は築土とも記した。旧村社。主祭神は応神天皇で仲哀天皇・神功皇后を合祀。江戸時代には天台宗無量寺が別当を勤めていた。社伝によると、弘仁年間(八一〇―八二四)の創建という。また社地は室町時代の砦の跡で、その弓矢を祀ったのが当社ともいう。元和二年(一六一六)には当社の南側に筑土(築土)明神が遷座。同明神は、社伝によれば天慶三年(九四〇)に平将門の霊を平川ひらかわ(現千代田区)津久戸つくどの地に祀り、津久戸(津久土)明神と称したことに始まるといい、また太田道灌が江戸築城の際に武蔵一宮の氷川明神社(現埼玉県さいたま市氷川神社)の分霊を勧請したともいい、定かではない。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]奈良市水間町

水間みま町の集落中央部にある。祭神は品陀別ほんだわけ命・宇麻志間遅うましまじ命。古く水間杣の鎮守として、領主東大寺の鎮守手向山とうげやま八幡を勧請したと考えられている。もとしも(現奈良市)にあった御霊社を合祀して御霊八幡とも称する。久安六年(一一五〇)一一月二八日の水間杣内検帳案(東大寺文書)の除田のうちに「神祭田一反 八幡宮田二反」、助正名に「八頼山一反八幡」とみえる八幡宮をさすとも考えられる。社殿には平安時代の僧形八幡神像二体を安置すると伝える。「水間庄八幡宮御湯釜」と刻銘した応永三三年(一四二六)の湯釜があったが、拓本のみ現存。安永五年(一七七六)以来の宮本算用帳(社蔵)によると、例年九月九日の祭礼には御湯神事を行い、おきな舞を奉納した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]根占町山本

山本新町やまもとしんまちに鎮座する。祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇。旧村社。「三国名勝図会」などに正八幡社・正八幡宮とみえる。文政七年(一八二四)の小根占名勝志(県立図書館蔵)によると、禰寝氏は上京の折に摂州広田ひろた八幡(現兵庫県西宮市の広田神社)を勧請しようとし、延文二年(一三五七)黒木重吉が佐多さたに着船して山本村平田ひらたに勧請、黒木氏は代々神主を勤めている。その後、宮地を開田して現在地へ遷座したと伝える。一説に禰寝清重による勧請ともいう(三国名勝図会)。大永五年(一五二五)二月二五日銘をもつ棟札に建部尭重(尊重)、永禄四年(一五六一)四月八日銘をもつ棟札に建部清年・重長の名がみえる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大村市松原本町

大村湾に臨んで鎮座。旧長崎路松原まつばら宿の中央部にある。祭神は品陀和気命・天照大神・大物主命。旧村社。松原は鎌倉幕府の御家人工藤祐経がその地頭職を源頼朝から与えられた地で(日向記)、これに伴って鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祀った可能性があり、在地の庄官として関東から派遣された伊東氏が当社の別当を勤めていることも注目される。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]余目町余目 町

県道余目―温海あつみ線の東側、通称御殿ごてん町にある。祭神は誉田別天皇・玉依姫命・息長足姫命・天照皇大神。旧郷社。明暦二年(一六五六)に記され、文化一一年(一八一四)と昭和八年(一九三三)に補記された郷社八幡神社本記(当神社文書)によると、養老三年(七一九)宇佐八幡より出羽国府に勧請され、坂上田村麻呂や源義家に崇敬されたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]遊佐町豊岡

石辻いしずの北西部、松野窪まつのくぼに鎮座。祭神は誉田別命ほか四神。旧郷社。「出羽国風土略記」によれば前九年の役・後三年の役に際し、源義家が当地に陣を置き勧請したと伝える。社伝によれば創祀以後土豪の崇敬あつく、神田も多く神事も盛んであったといい、八幡田・神子免田かみこめんでんの地名が残る。慶長六年(一六〇一)最上義光庄内領有後、神領を没収され神事は衰微し境内は荒廃したが、元文年間(一七三六―四一)以後復興し、寛政五年(一七九三)社殿も再興した(山形県神社誌)。江戸時代、神事の流鏑馬は二月の初午と三月三日の勧請記念日に行われ、境内の南方に的掛の大木跡が残る。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]下市町大字下市小字西内

下市の氏神として城山しろやま丘陵の中腹に鎮座。祭神応神天皇。旧村社。応永二年(一三九五)九月檜垣本ひがいもと(現奈良県大淀町)の八幡神社を分祀して字みやみねに奉斎したが、享禄四年(一五三一)現在地に遷座されたという。天明八年(一七八八)の下市村明細帳写(天理図書館蔵)には「神社地弐町弐反四畝拾弐歩、氏子持」とある。また「境内ニ寂静寺と申守僧寺ニ御座候、神主無御座候」とあり、境内に医王山寂静じやくせい(真言宗)と称する神宮寺があったが、明治二年(一八六九)日光につこう(現下市町)に合併された。昭和一二年(一九三七)の下市大火に焼失、同二一年再建。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]浅科村蓬田

誉田別尊(応神天皇)・玉依比売命を祀る。八幡やわた村・蓬田よもぎだ村・桑山くわやま村三ヵ村の鎮守で、旧暦四月と九月の一五日の祭礼には近郷からの参詣者で賑う。

延徳三年(一四九一)社殿建立の棟札の表墨書銘に「奉建□八幡宮□□□□□□□滋野遠江守□□□」、同裏墨書銘に「抑彼八幡宮之御事、其始雖送数百歳、更不知建立始、爰滋野遠江守光重、望月御牧中悉致本意為知行、依其懇祈奉造立彼宮」(八幡神社蔵)とあって、古代より東信地方に繁栄していた望月氏が土豪的武人に成長し、祖先神たる高良こうら社に、鎌倉時代より武家に尊崇された八幡神を併祀したものと考えられている(北佐久郡志)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]美山町大宮 茶山

大宮おおみやの北方山麓の字茶山ちややまに鎮座する。祭神は誉田別ほんだわけ尊。旧村社。当社の北寄りの山中に磐座跡と思われる巨岩が残る。当社は「延喜式」神名帳に載る大野おおの郡九座のなかの「磐座イハクラノ神社」と伝えるが、また同神名帳の足羽あすわ郡一三座のうちの「土輪ツチノワノ神社」(ハニワともよむか)ともいう。磐座神社について「越前国名蹟考」は浅山直明なる者が俚伝として記した書状を引いて、磐座神社は八幡神社鎮座以前にあり、拝殿や鳥居跡と思われる礎石が残っていたと述べる。しかし同書は続いて「按するに始末記に熊野堂とありて磐座社の沙汰なきを以てみれば天正の一揆より以前に磐座社は廃絶せしものか、又おもふに右の社跡は今山上に在る所の熊野の社跡にして是即磐座の社なりしか弁へかたし」と記す。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]敦賀市大比田 宮ノ本

高森たかもり山の麓に鎮座する。祭神は応神天皇。旧村社。敦賀郷方覚書(京都大学文学部国史研究室蔵)は「弓矢正八幡宮 八月十五日餅飯御供ヲ備ヘ鮪魚一ツヲ添」と記し、「敦賀志」は「氏神高森八幡社」と載せる。仁平二年(一一五二)に当地の刀禰(江戸時代には中山家を名乗る)七郎左衛門直忠が勧請し、子孫が神主を勤めた。享禄五年(一五三二)六月の朝倉景紀所領安堵状(中山家文書)にも「一高森八幡 九月九日之御神事之口明畠、私神主ニて河端飛騨守殿へ酒五升・いも五升・枝大豆・しゐの折枝等参候、此外御神事等勤申候、霜月籠ニ七日之間灯明参候」とみえる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]橿原市東坊城町

近鉄坊城ぼうじよう駅の南東に鎮座。祭神は誉田別ほんだわけ命・天照あまてらす大神・豊受とようけ大神。旧村社。寛永一二年(一六三五)以来の宮座文書が残り、文書箱には元和元年(一六一五)の墨書銘がある。境内には神宮寺であったと思われる大日堂があり、かつて万田山長福ちようふく寺と号した。当社と北東方の東坊城町弓場垣内ゆうばがいとにある春日神社では、八月一五日にホーランヤ(県指定無形民俗文化財)という火祭が行われる。同日午後、同町内大北おおきた(大喜多)川端かわばた・弓場・出垣内でがいと古川ふるかわ万田まんだの六垣内の氏子が集合、まず春日神社へ弓場・大北・川端・出垣内から大型の松明(四基)を運び込み、点火したのち担いで境内を暴れ回る。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]下呂町森

もりの中央部、町並東側の段丘上にある。境内は杉の大樹に囲まれる。主祭神は応神天皇。旧村社。俚伝では古くは湯之島ゆのしま村にあり、後世当地に移ったという(飛州志)松森水無まつもりすいむ八幡宮ともよばれ氏子は下呂郷六ヵ村。「和漢三才図会」に「飛騨国神明社在益田郡松森村、俗ニ云志也具之乃宮道祖神也」とあるのを当社に擬す説がある(斐太後風土記)。元禄八年(一六九五)の下呂八幡宮記録之覚(飛騨下呂)によれば、祭礼は年六度行われていたが、金森氏支配になって社領が取上げられたため年一度になったという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]西米良村村所

一ッ瀬川の左岸、村所むらしよ市街の北部にある。村所八幡神社ともいい、懐良親王・良宗親王・米良重為・米良重鑑を祀る。当社草創の経緯は以下のように伝えられる。南北朝時代、征西将軍懐良親王の遺児良宗親王を奉じて米良に潜居した菊池氏(のち米良氏を号する)は当社の前身御川おんかわ神社を創建、のち懐良親王のために大王宮を合祀して大王宮御川神社と称し、後年小大王として良宗親王を移して合せ祀ったという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]藤枝市花倉

へんしよう寺の南隣にある。祭神は品陀和気命・高良玉垂大神・息長帯比売命。旧郷社。花倉はなぐら八幡宮と称される。天喜元年(一〇五三)源義家が奥州下向に際し豊前宇佐宮を勧請したのが始まりという。もとは西方にしがた村の大沢だいたく寺内にあったが、享禄三年(一五三〇)今川氏により現在地に移されたとされる(駿河記)。天文一六年(一五四七)一二月一二日の池谷満重公事書出(岡埜谷文書)にみえる「はなくらのやふさめ」は当社の流鏑馬神事のことで、費用は七五文であった。この神事は江戸時代まで続けられ、神主石神家に伝わる年不詳の境内図には馬場が記されている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]丹後町平 隠原谷

祭神誉田和気命。旧村社。

創建時期は不詳だが、保元三年(一一五八)一二月三日付官宣旨(石清水文書)石清水いわしみず八幡宮(現八幡市)宿院極楽ごくらく寺領としてみえる「丹後国平庄」が当地に比定されるので、その関係から八幡宮が勧請されたものと推測される。社記によれば正暦年間(九九〇―九九五)藤原保昌が丹後国国司として下向巡視の時、源頼光の命により北海鎮護・武運長久を祈るため石清水八幡をこの地に勧請したという。その後の経緯は不詳だが、当社蔵の旗箱に「再興応永廿七年庚子八月廿二日」と記される。また元禄一一年(一六九八)八月一五日付の棟札が残り、現存の社殿はこの時のものという。

「丹哥府志」は「平村より南三山村に至る凡八ケ村これを宇川の上組といふ、八幡宮は上組八ケ村の氏神なり」と記すが、当社は古来、宇川うかわ一九ヵ村の総社として崇敬されてきたという伝承もある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]関宮町別宮

別宮べつくう集落の北東端、字八幡屋敷はちまんやしきにある。応神天皇・玉依姫命・神功皇后を祀り、旧郷社。別宮八幡宮とも称された。貞観年中(八五九―八七七)に豊前宇佐宮の分霊を勧請したとの伝承があるが、草創の経緯については不詳。往時は山城石清水いわしみず八幡宮の末社、熊次くまつぎ庄一二ヵ村の総鎮守として栄え、教海きようかい寺・西念さいねん寺が社僧を勤めていたという(「七美郡誌稿」など)。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文七美しつみ郡の項に「熊次別宮 六町七反半四拾分」とみえ、「八幡宮領」「地頭瀬原田入道西念跡三人領、一人左衛門五郎入道了忍、一人佐藤二郎入道々性」の注記があり、田地の内訳は神田二町、経田二反、仏供田二反、地頭給一町、定田三町三反である。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]三加茂町中庄

JR三加茂駅の北に接し、国道一九二号に沿う。旧村社。通称金丸かなまる八幡神社。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・天津加佐比古命・武内宿禰命。もとはすぐ南の金丸山にあったと伝える。社地を約一メートル半の立石三八七個が取巻いており、古くには社地を石内いしのうちと称し、立石を神籠石とよんでいたという。金丸山中に鎮座していたときに用いられていたものを、遷座のときに移したものか。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]秦野市堀山下 宮

水無みずなし川の左岸台地上の字みやにある。西に県道丹沢公園―春日線を挟んで堀が通る。近世にはほり四ヵ村の鎮守。祭神は誉田別尊・息長足姫尊・高良玉多礼命。旧郷社。天安二年(八五八)宇佐八幡宮の分霊を勧請したと伝える。永禄七年(一五六四)と推定される甲子一〇月晦日付の木札の小野長門掟書写(県史三)の表には「毎年霜月朔日之祭礼、三分之名主御幣令頂(戴)事、以領主之御下知、各年ニ相定畢、聊相違有間敷者也」とあり、毎年一一月一日の祭礼には領主の命により堀村の「河村分」「斎藤分」「山下分」が交替で奉仕した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]徳島市八万町

八万はちまん町の西方、みやたに山山系南麓にある。旧郷社。祭神は応神天皇・仁徳天皇・大己貴命。社伝によれば、古くは八万村には神社がなく、下八万の馬場山ばばやまに金比羅大権現を祀った。その後橋本名はしもとみようの八幡社(現若宮神社)を合祀し、のち現在地に遷座したというが、年代等については明らかでない。社殿の建立は慶長九年(一六〇四)といわれる。寛保改神社帳には八幡宮、「阿波志」には大宮と称するとある。祭礼神事領として高一石余を与えられ(享保一五年寺社領相記帳)、隣接する長久ちようきゆう寺が別当を勤めた(寛保改神社帳)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]市川町甘地

祭神は大歳神で、大歳おおとし神社とも称する。旧村社。扁額には中央に正一位大歳大明神、左に女体大権現、右に八幡大菩薩と記されている。創建は不明だが、文化八年(一八一一)拝殿を再建、文政一一年(一八二八)に本殿が再建されている(棟札)。嘉永七年(一八五四)の神馬の絵馬がある。天正年間(一五七三―九二)から下垣内しもがいち(現姫路市)で舞われ、同村から伝わったとされる獅子舞は県指定無形民俗文化財

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]山川町 八幡

川田かわた川の右岸、字八幡にあり、旧郷社。主祭神は誉田別名・足仲彦命・息長足姫命・田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命。「たごりひめ」とよむ田心姫は多紀理姫の転訛とされていて、息長三神と宗像三神を祀っていることになる。田心姫の名は海洋神というよりも稲作農民の神の心象がある。社伝によれば嵯峨天皇の勅願により忌部氏が造営したとしている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]甲府市千塚三丁目

山の手やまのて(旧穂坂路)の北側にある。祭神は息長帯彦大神・品陀和気大神・息長帯姫大神。旧村社。当社の社記によれば、神護景雲三年(七六九)に勧請され、圭田数十町を寄進された。その後源頼信が長元年間(一〇二八―三七)に甲斐守に任じられると社殿を造営、以後甲斐源氏の氏神となり、とくに武田氏から尊崇されたという(甲斐国志)。大永元年(一五二一)一〇月の飯田いいだ河原の合戦は当社の周辺で行われたといわれ、戦勝を祝して信虎が太刀一腰を奉納したと伝える(同書)。永禄四年(一五六一)の番帳には七九番として「千塚の禰き」とある。これは当社の神職とみられ、島上条しまかみじよう(現敷島町)の八幡宮の神職とともに府中八幡宮へ勤番していた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]板野町矢武

矢武やたけ地区の南西にあり、高野山真言宗金剛こんごう院の東に隣接する。旧郷社。主祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后、相殿に猿田彦命と大鷦鷯命を祀る。もと下庄しものしようの八幡神社を下庄八幡とよぶのに対して、上庄かみのしよう八幡と称した(寛保改神社帳)。これは当地が板西上ばんざいかみ庄に属していたことによるものという。元禄四年(一六九一)の年紀のある棟札によれば、矢武・黒谷くろだに那東なとう西分にしぶん椎本しいのもと神宅かんやけ(現上板町)の一帯の産土神であった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大洲市阿蔵

大洲市の中心部を西流するひじ川が北流へ転ずる屈曲部の深淵に臨み、県指定天然記念物の社叢に覆われた丘陵(七〇メートル)上に鎮座。祭神は田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命・誉田天皇。旧県社。

元弘年間(一三三一―三四)以降、宇都宮家九代にわたっての尊崇を受け、文禄四年(一五九五)大津(大洲)領主となった藤堂高虎は神領三〇石を寄進した(宇都宮文書)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]河北町溝延 八幡小路

溝延みぞのべ集落南西端にあり、溝延八幡宮と通称される。祭神応神天皇。旧郷社。寒河江さがえ庄三八幡の一つと伝え、社蔵の由来記では、天慶年中(九三八―九四七)の創建で、康平三年(一〇六〇)源頼義が、寛治四年(一〇九〇)には源義家が神領を寄進し、建久二年(一一九一)大江広元の神田寄進も記されるが確証はない。現社地の西一キロ離れた所を不動木ゆするぎといい、大江茂信が溝延城を構築するに際し、城の南西に不動木八幡を祀り、別当神宮寺(現廃寺)を建立したという。神宮寺は元禄一一年(一六九八)の品々覚書(渡辺文書)に「除地高拾四石四斗、八幡別当真言宗 神宮寺」とあり、慈恩じおん(現寒河江市)宝蔵院末寺で、紅玻璃の阿弥陀如来を本尊とし、その厨子(現在は山形市慈光明院所蔵)背面に「奉造立溝延八幡宮大菩薩 願主大江義信朝臣 至徳二乙丑八月日」の文字があるが、後世に記された可能性もある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]浅羽町浅岡

梅田うめだ八幡社・馬場ばば八幡社と合せて浅羽三社という。祭神は息長帯比売命・誉田和気命・玉依比売命。旧郷社。慶雲四年(七〇七)創建とする口碑もある(磐田郡誌)。文正元年(一四六六)九月吉日の八幡大神宮再興棟札があり、慶長八年(一六〇三)八幡やわた村のうちに社領三五石を寄進され(同年九月二五日「徳川家康朱印状写」八幡神社文書)、以降代々の将軍に安堵されている(同文書)。同一〇年修復、元和元年(一六一五)造立、寛永八年(一六三一)再興(社蔵棟札)。「遠江国風土記伝」によれば、江戸時代八幡村・米丸よねまる村・持広もちひろ村の三村が八幡村八幡神社を氏神としたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大隅町岩川

単に八幡宮ともいい(三国名勝図会)岩川いわがわ八幡とも通称される。祭神は玉依比売命・応神天皇・武内宿禰・保食神・仲哀天皇・神功皇后・天照大神・伊邪那岐神とされ(大隅町誌)、合祀された諸社の祭神を含むものであろう。現在の社殿は、古来中之内の川崎なかのうちのかわさきの官有地に鎮座していたものを、大正三年(一九一四)現在地の岩川城跡に移転したものである。しかし「三国名勝図会」によれば、所在地は中島なかしま(現末吉町岩崎)とあり、万寿二年(一〇二五)に山城石清水いわしみず八幡宮の分霊を勧請して創建したが、兵乱によって衰退したので、天文四年(一五三五)に再興されたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]三光村臼木

臼木うすぎの南の丘の上にあり、一般に手斧立ておのだて八幡社とよばれ、地元では「ちゅうのだて」と発音する。祭神は応神天皇。旧郷社。「豊前志」に「宇佐宮第三殿造営之時、此の社内なる楠の本にて杣始の式あり。故、此処を手斧立と云ふとぞ」とある。宇佐宮寺造営并神事法会再興日記目録(到津文書)によれば、応永二七年(一四二〇)「同八月廿八日乙丑巳剋三殿杣始在之、豊前国下毛郡遷替、河内・一瀬・伊乃倉ノ前ノ楠也」、天文二二年(一五五三)の永弘通忠神事覚書(同文書)にも「上宮三御殿在杣始、下毛郡野中郷イノクラ一瀬也」とある。元和三年(一六一七)の宇佐宮行幸会記録(薦神社文書)に「御杣始之事六月晦日、右之神官宇佐を立て如例土田之杣楠之本ニ至ル、自上右秋季初午日ニ御神事為修行、明日七月一日初午ニ当れり、其夜土田ニ致通夜、明七月一日卯刻御杣始御神事如先例執行畢」とあり、その末尾に「当村猪隈山杣楠斧始、同所一之瀬祓祝在之、一之殿此所仁天、二之御殿者山田村、三之御殿者岩尺、一之瀬祓串すヽ竹愛帰山仁天」と書込んでいる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]穴吹町穴吹 楠ノ本

穴吹川の下流左岸、穴吹市街の北東部にある。誉田別命・気長足姫命・大鷦鶺命および筒之男三神の六神を主祭神とし、ほかに八神を祀る。旧郷社。かつては現社地の南西、字盤若の磐若はんにやのはんにや(現廃寺)の寺域内に鎮座していたが、のちに現在地に移転したという。穴吹享保きようほう寺の歴代書(同寺蔵)によると、同寺七世の良本(寛永一五年没)が元和八年(一六二二)に「当村八幡宮再興の本願主」となって、「社地山より当社地」に移したといい、このときに遷座したものであろう。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]木頭村和無田

那賀川上流がU字型に湾曲する左岸台地、字ヨシノに鎮座する。旧村社。祭神は誉田別命・蛭子命・素盞嗚命・猿田彦命・天鈿女命・軻遇突知命・大山祇命・筒男三神・金山彦命・押竹金日命・倉稲魂命・奥津彦命・奥津姫命。創立年代は不明であるが、当社の最も古い棟札には応永八年(一四〇一)の紀年がある。寛保改神社帳には八幡宮、「阿波志」では八幡祠とみえる。木頭地方の総鎮守社であった。江戸時代に西宇にしう村の蔵王ざおう権現などを合祀し、近代に入ってからも折宇おりうの二つの八幡神社を合祀している。当社の神事として三つの祭儀がある。矢開祭は、正月二日に当屋一二人が初めに鳥居の外に矢を射放ち、その後境内の的場で矢を射、新年の開運と豊穣を祈願する。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]河辺町和田字坂本北

祭神は仁徳天皇。応安二年(一三六九)豊島としま城主が鎌倉の鶴岡つるがおか八幡宮より城内に勧請したのが始まりで、同氏滅亡後現在地に移されたという。旧郷社。

秋田藩主佐竹氏の崇敬厚く、参勤交代時には参拝した。四代藩主義格が奉納した宝永二年(一七〇五)の「八幡大菩薩」の額がある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]牟岐町牟岐浦

八幡山に鎮座。牟岐川の河口部の左岸にあたり、対岸に牟岐津むぎつ神社が祀られる。旧郷社。主祭神は誉田別命・気長足姫命・玉依姫命などとされる。承久二年(一二二〇)に当地の地頭により創祀されたと伝え、元亀二年(一五七一)には地頭の藤原虎房が牟岐八ヵ村の惣氏神として社殿を再建したという(「阿波志」など)。慶長二年(一五九七)・寛永一〇年(一六三三)に蜂須賀家からの援助により修復を行っている。寛文一二年(一六七二)「八幡宮」の社殿が造営され、神主を東牟岐藤原専九郎とする。宝永四年(一七〇七)津波により記録類を流失したとされる(社蔵津波杉板記)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]福井市照手四丁目

足羽あすわ川北岸に鎮座する。祭神大鞆別おおともわけ尊。旧郷社。社伝によると、文明年間(一四六九―八七)宇佐八幡宮の分霊を一乗いちじよう(現福井市)城戸内きどのうちへ勧請し、慶長六年(一六〇一)北庄きたのしよう八幡町へ遷座したという。福井藩主結城(松平)秀康より三橋みつはし村のうちに社領一〇石を寄進され、同一九年同藩主忠直の大坂出陣に際しては武運長久の祈祷も行われた。宝永五年(一七〇八)の火災で類焼後、七代藩主松平吉品から社地五四〇坪余を寄進されて現地に再建されたが、旧社地約四〇〇坪もそのまま寄進され、元八幡もとはちまんと称した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]海南町大里

松原まつばらに鎮座。こみやさんと通称され、同じ大里の三本松おおざとのさんぼんまつにある八幡神社はほんみやさんとよばれる。旧郷社。祭神は誉田別命・天照大神・天児屋根神とされる。「延喜式」神名帳に記す那賀なか郡七座の一つ「和奈佐意富曾ワナサイフソノ神社」に比定する説があるが(阿府志)、未詳。もととも(現海部町)大宮おおみや山にあったが、慶長九年(一六〇四)当地に移ったという。海部かいふ(現海部町)宍喰ししくい(現宍喰町)を含む浦里二一ヵ所の産土神で、貞治三年(一三六四)銘の鰐口や慶長九年の棟札などが伝えられている(天保一一年「海部郡取調廻在録写」飯田家文書)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川井村江繋

薬師やくし川・小国おぐに川の合流点に鎮座し、品陀和気命を祀る。旧村社。大僧都覚暦院によって鎮守府八幡ちんじゆふはちまん神社(現水沢市)より勧請されたと伝えるが年月不詳。「管轄地誌」には明和八年(一七七一)とある。神殿は三尺六寸四方で寛政二年(一七九〇)、神門は文政一〇年(一八二七)、拝殿は嘉永六年(一八五三)に建立。近代に入って江繋えつなぎ神社・八坂神社を合祀する。江繋神社は閉伊郡の地頭閉伊頼基の臣明石監物宗晴が、小国・江繋・泉沢いずみざわの地を治めるにあたって根城ねじよう八幡宮(現宮古市)より勧請、のち宗晴が頼基の死に殉ずるに及んでその霊を合祀するという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]春日部市粕壁

古隅田ふるすみだ川南岸の自然堤防上にある。祭神は誉田別尊・息長足姫尊・武内宿禰命・豊受姫命。元禄七年(一六九四)の略縁起(「村鏡類諸書物留書」中島家文書)によれば、新田義貞の家臣春日部治部少輔時賢が元弘元年(一三三一)頃に鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと伝え、以来新方にいがた領の総鎮守となったという。当社周辺には中世の春日部氏居館跡ともいわれる浜川戸はまかわど遺跡があり、略縁起にあるような春日部氏とのつながりを推測させる。当社に隣接する稲荷社も春日部氏が山城伏見稲荷社から勧請したものという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]小川町大塚

大塚おおつかの西部にある。誉田別尊などを祀り、旧村社。「風土記稿」などによると後深草院の皇子と伝える梅皇子の霊を祀ったのが当社の草創といい、建武元年(一三三四)の建立とされる。なお同皇子を鎌倉将軍守邦親王の庶子とする伝承もある。近世、当社別当を勤めたのは本山派修験梅岑ばいしん寺であった。同寺は梅香山と号し、先達男衾おぶすま長命ちようめい(現江南町)の配下で、本尊は不動明王。「風土記稿」によると、梅岑寺を執行した片岡家は中古神主であったが、永昌(天正一九年没)の代に修験に転じたという。慶安二年(一六四九)には徳川家光から八幡社領として一〇石余が同寺に寄進され(徳川家光朱印状)、代々社領として安堵された。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]高松市三谷町

三郎さぶろう池の北畔宮浦みやうらに鎮座。「全讃史」によれば延長年間(九二三―九三一)、讃岐朝臣兵庫が三谷みたにに封を受け、山の南に山城石清水いわしみず八幡を勧請、鬼門の鎮とした。天暦三年(九四九)、僧尭存が社地に本地仏の地蔵堂を建立し、宝幢山三谷寺と称した。寛永五年(一六二八)三郎池築造に際して現在地に移したと伝える。「讃岐国名勝図会」によれば、初め三郎池の中に尭存が勧請、三谷景晴が当社を崇信、当神に祈って誓中で怪鳥を射止めたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]神辺町西中条

箱田はこだ川中流左岸に鎮座。応神天皇・神功皇后・三女神を祀り、旧村社。創建年次は不詳だが、永正三年(一五〇六)までは西中条にしちゆうじよう藤森の小山ふじもりのこやまにあり、同年現在地に移転、元禄一二年(一六九九)再建したという。

享保一九年(一七三四)の東中条村明細帳(藤井寛氏蔵)に氏八幡宮・社人佐藤対馬守として「是ハ西中条村東中条村両村氏宮ニ御座候、則両村境ニ宮居御座候ニ付、西中条村御水帳ニ乗居申候、境内山林共ニ御除地ニ御座候」とみえ、嘉永七年(一八五四)の村方定り規定書帳(同氏蔵)に「両村八幡宮之儀往古より中条村と申候一村一体之節中条村・箱田村并徳田村・湯野村・下御領村・三谷村合〆(ママ)ケ村之惣氏神ニ只今西中条村内之藤森先之方池之上ニ宮立有之候、右七ケ村惣氏神ニ有之候間、祭礼之節ハにぎにぎしく御座候、然ル処水野美作守様御知行之節、万治年号之時ニ村々不和合ニ相成候氏神を取分迚申候」とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]上山市宮脇 高野坂

宮脇みやのわき高野坂こうやさかにあり、宮脇八幡神社と通称される。祭神誉田別命。旧郷社。創建は古く「山形城主修理大夫兼頼朝臣宮社再建有リ」とある(出羽国風土略記)。社伝によれば慶長五年(一六〇〇)最上義光が上山城主里見越後に命じ、岩倉いわくら山麓に八幡宮と若宮の社殿を再建したといわれる。土岐頼行は藩の総鎮守として灯明上畑一反一九歩・岩倉山一ヵ所を寄進した。寛永一八年(一六四一)頼行は将軍徳川家光の男子(のちの家綱)誕生を賀し、当社に天下泰平・五穀豊饒・若宮武運長久を祈祷せしめた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]石下町本石下

石毛いしげ城跡に鎮座。祭神応神天皇。旧村社。慶長二〇年(一六一五)石毛氏の旧臣らが現大分県の宇佐うさ神宮を勧請したことに始まり、同年と元禄一三年(一七〇〇)の棟札二枚を有すると伝えられる。現社殿は天保一三年(一八四二)に大修復したもの。境内社に大日命を祀る日枝ひえ神社、伊弉冊命を祀る白山はくさん神社、火産霊命を祀る愛宕あたご神社、素盞嗚命を祀る八坂やさか神社がある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]狭山市入間川三丁目

西武新宿線狭山市駅の西方にある。祭神は応神天皇(誉田別命)。旧村社。正徳三年(一七一三)の八幡神社縁起(当社蔵)によると、創建は不明だが、元弘三年(一三三三)五月鎌倉攻撃に向かう途中の新田義貞が守護仏の八幡大菩薩像を奉納して戦勝を祈願したとある。江戸時代には入間川いるまがわ村の鎮守。慶安二年(一六四九)同村内で社領五石余を与えられた(「徳川家光朱印状」当社蔵)。別当は成円じようえん(廃絶)。毎年九月一四日・一五日に鹿子舞が奉納される。鹿子舞と書く理由については、明治初年に獅子舞一行が別当寺を出発したところ、神仏分離政策に基づいて獅子は仏教に属するものとしてとがめを受けた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]那賀川町八幡

八幡やわた地域の西部、字石川原いしかわはらにある。祭神は誉田別命。旧郷社。社伝では明徳三年(一三九二)二月に山城石清水いわしみず八幡宮の分霊を勧請し、一国一社大宮八幡宮と称して、新庄しんしよう(坂野新庄)一〇ヵ村の産土神であったという。一〇枚の棟札が所蔵され、最も古いものは明徳二年と記され、以後永正九年(一五一二)・享禄四年(一五三一)・天文一七年(一五四八)・永禄七年(一五六四)・元和三年(一六一七)・寛永七年(一六三〇)・寛文一一年(一六七一)・貞享元年(一六八四)・元禄一四年(一七〇一)のものがある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]久世町草加部

宮の畝みやのうねにあり、通称草加部くさかべ八幡宮。旧郷社。祭神は誉田別命、相殿に足仲彦命・息長帯姫尊を祀る。「作陽誌」によると、初代高田たかた(現勝山町)城主三浦貞宗が駿河国から勧請したもので、当初は高田村常平つねひらにあったという。社伝によれば、明応年間(一四九二―一五〇一)の洪水で社殿が流され現在地にとどまったので、三浦貞連が社殿を建立したと伝える。以来、天文年間(一五三二―五五)に尼子晴久の進攻をうけ、尼子の家臣宇山久信によって高田城が陥落したが、宇山氏の家臣中臣四郎右衛門を奉行として、弘治三年(一五五七)に社殿を再建したという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]東松山市上野本

上野本かみのもとの東部にある。誉田別命など三柱を祀り、旧村社。江戸時代には八幡社といい、野本村の小名在家ざいけの鎮守で、相殿には氷川・雷電らいでんを祀っていた(風土記稿)。「風土記稿」には古くは別雷神を祭神とする雷電社一社であったが、天武天皇元年(六七二)志貴広豊なる者が、八幡を勧請し、氷川を合祀したとの伝承が記される。近世前期には野本郷領主渡辺氏の信仰が厚かった。文政一三年(一八三〇)の野本郷惣鎮守八幡宮由来書(屋代家文書)によると、旗本渡辺重綱は野本地頭になった際、八幡神に田地一町五反、氷川神に田地一反六畝を寄進、重綱の子吉綱は寛文元年(一六六一)大名に取立てられた礼として、年々八幡神に祭礼米一〇俵三斗、氷川神に供米八斗六升を寄進するようになり、翌二年には社殿を造営している。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]一関市釣山

釣山つりやま公園の南東部にある。祭神は誉田別命・坂上田村麻呂・田村輝定。旧郷社。康平四年(一〇六一)源義家(頼義ともいう)篠見しのみ(釣山)に陣を布き、合戦の勝利を祈願して八方に勧請した八幡社の一と伝える。また一説には天正年中(一五七三―九二)葛西清茂が館山姥杉たてやまうばすぎ(御館山見上坂)に勧請、寛文二年(一六六二)伊達兵部宗勝により現在地に移されたともいわれる(「関邑略志」一関市立図書館蔵)。一関総鎮守で別当は羽黒派修験文珠もんじゆ院。一関藩主田村家の崇敬が厚く、元禄二年(一六八九)境内に射的場が設けられ、藩主建顕自らが奉納射的を行って自作の鏑矢を奉納。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]金山町祖師野

祖師野そしの集落のほぼ中央、字茅野かやのにある。祭神は応神天皇。旧郷社。祖師野の宮とも称され、社伝によると養和元年(一一八一)に飛騨門原かどはら(現下呂町)の田口左近光員が鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を勧請して創建したという。応永年間(一三九四―一四二八)には領主から奉納された神領として田一〇石と山林などがあったという(金山町誌)。明治二年(一八六九)の祖師野村明細帳に神領一〇石が記される。五〇年ごとに式年祭が行われ、文政二年(一八一九)の式年祭に乙原おつぱら村代官所から奉納された幟が現存する。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]柴田町槻木 白幡

槻木つきのきの南方、東流する白石しろいし川左岸の小高い丘の上にある。南は阿武隈川との合流点を望み、西隣を白石川から取水する稲荷山いなりやま(名取堰)が北流する。神明造の社殿は石畳の参道を登りつめた所に北向きに建ち、北向きたむき八幡ともよばれる。祭神は品陀和気命。明治二年(一八六九)の当社別当の真言宗白幡はくばん満蔵まんぞう院の由緒書上(日下歳男家文書)によれば、康平五年(一〇六二)に源義家が守護神である八幡社を当地に勧請、併せて白幡一流を寄進したのが始まりといい、地名もこれによるという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]八王子市元八王子町

八幡宿に鎮座。祭神応神天皇。旧郷社。梶原かじわら八幡宮ともいい、伝承によれば、鎌倉時代に梶原景時が鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したという。「風土記稿」には建久二年(一一九一)六月一五日の景時勧請の棟札のほか、寛正四年(一四六三)一〇月二一日の梶原修理亮家景、文明一七年(一四八五)一〇月一六日の梶原修理亮入道「賢□」(両者は同一人であろう)の棟札も収録されている。社伝では文明一七年別当東光坊聖宗の造営棟札があるとするが、現在は文明一七年稲荷社造営棟札(別当東光坊)、明和七年(一七七〇)経転読書写奉納札、大般若経六〇〇巻ほか五点の江戸期・明治期の御札が確認される。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大東町大原 八幡館

国道三四三号の北側、新山にいやま城跡南麓にある旧村社。祭神は誉田別命。康平六年(一〇六三)源頼義の勧請と伝える。万治二年(一六五九)大原おおはらに移封された伊達宗房は社殿を造営、一千株の杉を植えて寄進した。この杉は現在も境内に残る。宗房の子で仙台藩主となった吉村は享保八年(一七二三)家臣六〇〇余名をつれて参拝し、神料一貫文を寄進して当社を東山ひがしやま総鎮守、伊達家祈願所とした(嘉永五年「御出馬御案内手控」大原町誌)。以後祭日には藩の重臣が代拝に来たといい、第二次世界大戦前まで続いていた。九月一五日の祭日には伊達家から贈られた装束による先陣行列が行われる。旧暦一月一八日(現在は二月一一日)に行われる水掛祭は、明暦三年(一六五七)の江戸大火後、防火祭として始められたといい、その後厄年の男性の厄落しの祭となった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]八幡町小野

吉田よしだ川右岸の八幡山山麓の字ヒッツリに鎮座する。祭神は応神天皇。旧郷社。境内社は天神社で、ほかに摂社として字西山にしやま鎮座の神明社があった。由緒によると、建長(一二四九―五六)頃、鷲見すみ(現高鷲村)八ヵ村の地頭鷲見武蔵守(のち加賀守)が、川上から流れてきた八幡の文字の現れ出た鷲の白羽を拾い、八幡神社として崇拝したのを始まりとする。永禄二年(一五五九)東氏を滅ぼした遠藤盛数は、八幡山に築城するため、それまで山頂付近にあった当社を東麓の現在地に遷座させたという。旧社地は八幡城天守閣の脇にあり、八幡屋敷とよばれた(「神社明細帳」県立歴史資料館蔵)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]下呂町乗政

乗政のりまさ地区の中心部にある。主祭神は応神天皇。旧村社。乗政八幡宮ともいう。仁安元年(一一六六)頃の飛騨国雑物進未注進状(宮内庁書陵部蔵)に「竹原八幡宮」とあり、除田七反とある。この竹原たけはら八幡宮を当社に比定する説があるが、不詳。「飛州志」には応永年中(一三九四―一四二八)三木正頼の勧請とある。元禄八年(一六九五)の乗政村検地帳(乗政区有文書)には八幡宮地一町余および境内一五歩を慈雲じうん院抱除地として記す。別当を勤めた慈雲院(現臨済宗妙心寺派慈雲寺)は南隣にある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]木之本町飯浦

しずヶ岳西麓に鎮座する。「延喜式」神名帳の伊香いか郡「波弥ハミノ神社」に比定する説がある。祭神の波多八代宿禰はたのやしろのすくねは波美臣の祖という。文治年中(一一八五―九〇)に源義経が奥州に赴くとき、家臣内貴土佐が八幡神を合祀したと伝える(伊香郡志)。べつに社伝によれば、寿永三年(一一八四)壇之浦の戦に敗れた平維盛の子孫が竹生ちくぶ島を経て当地に至り、永住の地としたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]美馬町 八幡

重清しげきよ地区の字八幡やはたにある。主祭神は応神天皇・神功皇后命・姫大神の三柱で、旧郷社。社地は河岸段丘上にあり、吉野川流域を見渡すことができる。「阿波志」には「在重清村、源長宗置時祭料二十緡、田一町八段」とみえ、南北朝期の武将小笠原長宗(鎌倉時代の阿波守護小笠原長房の裔で、重清城主と伝える)が山城石清水いわしみず八幡宮の分霊を勧請し、重清城の守護としたことに始まるという。このとき長宗は祭料二〇貫・神田一町八反を寄進したとされるが、社伝ではこの祭料・神田の寄進者を戦国期の重清城主小笠原豊後守長政とし、伝来の鎧一領も豊後守による寄進と伝える。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]福江市下大津町

大荒おおあれに鎮座する。古くは正八幡宮と称した。旧県社。祭神は応神天皇・神功皇后および田心姫命・湍津姫命・厳島姫命とするが、厳島姫命は市寸島比売命で、当社は宗像三神を祭祀していることになる。延暦二年(七八三)の創建という所伝とは別に、文安五年(一四四八)宇久基が宇久うく(現宇久町)飯良いいら八幡宮を現在地に移して正八幡宮と称したとも伝える(「五島家代々記」五島編年史)。江戸時代は福江藩主の崇敬を受け、寛永一〇年(一六三三)五代藩主五島盛利が社殿を建立、福江島の惣社とされるとともに、福江領内の総鎮守として島民からも信仰された。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]鴨島町牛島 東宮間

川の南岸、字東宮間ひがしみやないにある。旧郷社。祭神は応神天皇・神功皇后・媛大神・天日鷲命など。古くは大宮おおみやとも称したが(「阿波志」など)、この大宮は麻の宮おのみやから転訛したものとする説がある(鴨島町誌)。創建の経緯は明らかではないが、神山かみやま勧善かんぜん寺所蔵の大般若経の巻三八八の奥書には嘉慶二年(一三八八)四月上旬の紀年があり、「阿州麻殖郡牛嶋八幡宮」で僧慶賢が書写した旨が記されている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]土浦市田中二丁目

祭神は誉田別命、旧村社。社伝によれば仁平三年(一一五三)八月、大田久助の創建といい、鎌倉初期に八田知家が無火袋六地蔵灯籠を寄進したといわれる。天文二三年(一五五四)に死んだ木田余きだまり城主信太範宗の霊を併祀したので、信太しだ明神ともよばれる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]奈良市押熊町

押熊おしくま集落西端の森に鎮座。旧村社。祭神品陀和気ほんだわけ命。境内の元禄一三年(一七〇〇)の石灯籠には八大竜王とあるが、現奈良市中山なかやま町の八幡神社を勧請したと伝え、同一五年の「八幡宮四ツ座次第押熊宮座衆」などの宮座記録が残る。正和四年(一三一五)の西大寺・秋篠寺の相論の際、大川おおかわ忍熊おしくまの堂舎・神殿が壊されたが(年月日未詳「西大寺僧訴状」西大寺文書)、当社はこの頃すでに存在したとも考えられる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]宝塚市波豆 谷田東掛

羽束はつか川と波豆はず川の合流地点北側に立地する。祭神は誉田別尊、旧村社。波豆地区の産土神。本殿は応永一〇年(一四〇三)の建立(同年一〇月二七日棟札)。江戸時代境内は除地(「波豆村明細帳」石田家文書)。天延元年(九七三)源満仲の創立という伝承がある(明治三七年「寺社取調」龍見家文書)。明治三年(一八七〇)の社寺改帳(波豆自治会文書)によると社殿は檜皮葺、左脇立が天照皇太神宮、右脇立が春日大明神、ほかに諏訪南宮・三宝大荒神・高良大明神・武内大臣・住吉大明神・大歳大明神・天満天神宮・熊野太神宮・愛宕神宮・大将軍・八坂神社があった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]舞鶴市字登尾

登尾のぼりおのほぼ中央、若狭国山中やまなか(現福井県大飯郡高浜町)に至る旧脇街道と笹部ささべに至る道との分岐点西側山麓に鎮座。祭神は誉田別尊・経津主神。旧村社。

社蔵の元禄七年(一六九四)銘の鰐口に「京所大明神」とあり、「丹哥府志」は「経所大明神」と記す。また旧語集に「経所大明神(中略)只今ハ八幡宮ト唱由」とみえ、天保一五年(一八四四)の同社棟札等収納箱の一札も「但し御神号正八幡宮ニ改」とするので、古くは「京(経)所大明神」と称していたことがわかる。

同社蔵の南北朝時代の御正体鏡は表面に正平七年(一三五二)の銘があり、裏面に天文八年(一五三九)の追刻がある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]久美浜町字鹿野 天王山

鹿野かの集落から東に続く丘に鎮座する。祭神品陀和気命ほか五神。旧村社。

大化元年(六四五)二月の勧請と伝える(熊野郡誌)。「丹哥府志」には「大神宮祭八月十五日」とあり、近世には祭神のうちに天照大神のあることから大神宮と号していたことが知られる。

当社は至徳元年(一三八四)五月六日付虎若丸承祐連署請文(石清水文書)などに「鹿野別宮」とある石清水いわしみず八幡宮護国ごこく(現八幡市)別宮との関係が考えられるが明確でない。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]東吉野村大字鷲家小字宮ノ馬場

鷲家わしかの中心に鎮座。祭神は誉田別ほんだわけ命・天照あまてらす大神・天児屋根あめのこやね命。旧村社。往古は大豆生まめお伊豆尾いずお(現東吉野村)両村の氏神を合祀していたが、約五〇〇年前に分祀したという。山城石清水いわしみず八幡から勧請したと伝え、もとは上鷲家の大岩にあったが、慶長年間(一五九六―一六一五)現在地に遷座。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]行田市行田

正式には行田八幡神社という。旧村社、祭神は誉田別尊。明暦元年(一六五五)行田町域の拡張に際し佐間さま村分の田中から現在地に遷座した。初めは萱葺の社殿であったが、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)に石鳥居が寄進され社殿も銅瓦葺になり、その後寛政期(一七八九―一八〇一)までに手水石・柵門・石灯籠・拝殿・幣殿と整備されていった。ちょうどその時期は行田町の祭礼が古来の瓜祭から祇園天王祭に変わるときで、祇園天王祭は六月だったため、当社では宝暦二年(一七五二)八月(翌年から九月)に祭礼狂言を執行、ある年は山車飾物に変わり、また花神楽に変わった年もあったが、同九年に神輿ができ、安永期(一七七二―八一)には獅子舞が加わった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]石狩市弁天町

石狩川河口左岸に位置する。祭神は誉田別命・倉稲魂命。旧郷社。明治七年(一八七四)以前は対岸の現八幡町にあった。一八五八年(安政五年)一月に箱館八幡宮(現函館市)の神主菊池重賢による箱館奉行所への末社造営願が許可され、五九年仮勧請という(「箱館神社調」北海道大学附属図書館蔵)。菊池は当初イシカリかヲタルナイへの「蝦夷地惣鎮守」の創建を願ったが、実際にはイシカリ領「字サツホロ麓」への「末社」造営とされた(「石狩八幡宮造営之手続」同館蔵)。五九年における石狩への仮勧請は札幌での造営へ向けての過渡的措置であったとされるが(箱館神社調)、遷座することはなかった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]中仙町鑓見内 幕林

たま川の左岸にあり、祭神は誉田別命。旧郷社。「月の出羽路」には別当職幕林山聖光院の記録に、

<資料は省略されています>

そのよしをもて、鑓見内とは今地の名におへる也とある。同書によれば、この神社はのち「幕林の宮の先例よしとて盛安自筆願書を認め、戸沢を始め小笠原等も矢を納めて後、長野村の田地五百刈を寄附ありといふ。今なほ五百苅田とてその田地あり」と伝え、さらに「寛文年中本社造営の時、大願主久保田関七右衛門直堅厚き由緒ありて、神供料として三斗の米永く寄附ありて、今に所務の所也。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]建部町福渡

福渡ふくわたりの町並の南端近く、旭川を望む山裾にある。旧村社、祭神は誉田別命。「西作誌」によれば八幡宮と称し、「相殿天照大神・春日大明神」とする。元禄二年(一六八九)の志呂神社上書(志呂神社文書)には「わきたち」として上弓削かみゆげ(現久米郡久米南町)厨谷くりやだに大明神とともにあげられ、ともに弓削庄内総氏神であるという。社地一町六反。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]瀬戸町三机

三机みつくえ浦の総鎮守であった。祭神は誉田別命・息長足比売命・田心比売命・湍津比売命・市杵島比売命。旧郷社。社伝では、天平五年(七三三)宇佐八幡宮からの勧請という。

「宇和旧記」には「其昔沖より流れよらせ給ふを安座仕候由、祭礼の時は、ほり切の下の馬場にて流鏑馬やぶさめなどこれ有る由」とある。神社に鬼面がある。西国通いの船に猿楽師が乗り、風雨のため三机湊に数日逗留したが、ある夜の夢にこの面を八幡宮に奉納すれば日和になるとのお告げがあり、そのとおりに奉納したところ直ちに出船できたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]那賀川町三栗

三栗みぐりう地区の北西部、字堤下つつみしたにある。祭神は応神天皇。旧郷社。寛保改神社帳には八幡宮がみえ、別当は三栗村の山伏宮坊。「阿波志」によると八幡祠は応永年間(一三九四―一四二八)の創建で、平島ひらじま郷全体で祀っていたという。旧平島郷比定地内の八幡やわた工地たくむじ古津ふるつ・三栗には八幡神社が祀られているが、これは平島公方足利氏と関係があるとされ、当社の石灯籠一対は平島公方七氏が献納したものという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]福井市和田東町

和田東わだひがしの東方にあり、祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。中世は和田荘の惣社であった。旧郷社。縁起(越前国名蹟考)によれば、天徳三年(九五九)源満仲が山城国石清水八幡を勧請し、盛時には坊舎一六坊、社領数十町があったという。天正の兵火で焼失後、別当三明さんみよう坊は一時東郷とうごう(現福井市)に難を避けていたが、再び旧地に小庵を営み、慶長年中(一五九六―一六一五)福井藩主結城秀康によって再興された。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]阿南市富岡町 滝の下

鍛治かじヶ峰東麓の阿南公園内に鎮座する。主祭神は誉田別命・足仲彦命・大鷦鷯命。旧郷社。社地は微高地で那賀なか川や桑野くわの川の氾濫による被害を避けられる位置にある。勝瑞しようずい(現藍住町)城主三好義賢(長慶の弟)の武将となっていた新開遠江守忠之が、富岡城にあった時の建立と伝える。忠之は丈六じようろく(現徳島市)で長宗我部元親に謀殺されたため、当社は保護者を失った。天正一三年(一五八五)蜂須賀家政の阿波入部後、賀島長昌が社殿を修復・造営し御供米を献納した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]勝北町下野田

下野田しものだ集落の西に鎮座。祭神誉田別尊など、旧村社。例祭は一〇月二〇日。「東作誌」にみえる四社八幡宮で、文治三年(一一八七)広野ひろの庄の総社として豊後宇佐八幡宮から勧請されたという。野田、福井ふくい田熊たのくま河面こうも(現津山市)四ヵ村の氏神であることから四社を冠したらしいが、同書には上野田村・下野田村の氏神とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川西町大字下永

初瀬はせ川左岸東城ひがしじように鎮座。もとは右岸東方ひがしほう高堂たかどうに、神宮寺の白米密くめみつ寺と並んであったと伝える。祭神誉田別ほんだわけ命・足仲彦たらしなかつひこ命・息長帯姫おきながたらしひめ命。旧村社。頭屋に神社猿楽田楽楽頭職に関する文書が残り、当社が楽頭職を有し職分が売買されていたことがわかる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]総和町関戸 西谷

関戸せきど集落ほぼ中央に鎮座。祭神誉田別命。旧村社。社伝には明治二八年(一八九五)下大野しもおおの明地みようちから遷座と記し、それ以前は八幡窪はちまんくぼにあったものと伝える。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]津市八幡町津

八幡やわた町津の東部にあり、祭神応神天皇・神功皇后・住吉大神・藤堂高虎。旧県社。社伝によれば、足利尊氏が垂水たるみ千歳ちとせ山に勧請したとされる。二代藩主藤堂高次が雨宿りのため当社に休息したのが縁で、寛永九年(一六三二)藤方村結城ゆうきの森に社殿を造営して移転、家祖高虎の霊を合祀し、社領として三〇〇石が寄せられた。同一二年から、八月一五日を当日とする七日間にわたる大きな祭礼が津町各町に命ぜられ、各町は趣向をこらした山車や行列を繰出した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]日向市富高

富高とみたか川北岸に位置する。旧郷社。祭神は足仲彦命・誉田別命・息長足姫命。例祭日は旧暦一一月一五日。江戸時代は富高村の氏神で富高八幡宮とよばれた。元暦年間(一一八四―八五)に平家残党の追討のためこの地に来た工藤祐経・那須与一が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したと伝える。県北三大祭の一の当社秋祭は一時途絶えていたが、文政一〇年(一八二七)代官塩谷大四郎が地元民の願いを認めて復活させたという。古くから旧暦八月一五日に十五夜祭として盛大に行われ、本来は神輿の浜成り行事が中心であったとされる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]下市町大字善城小字宮

小字みやに鎮座。祭神は応神天皇。旧村社。社伝には貞観四年(八六二)善城ぜんぎ山頂(小字宮辻)に創祀するとあり、「大和志」は「在善城村、有永正十七年六月祭礼日記及脩正会講式、其詞曰、百石爾八十石添弖、玉出志、乳房乃報、今日曾我為わがする、今曾我為、今日弖波、何時いつ加波為遍紀すべき、年母経怒遍志、小夜母さよも経怒遍志」と記す。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]月ヶ瀬村大字石打

小字かまえに鎮座。祭神は応神天皇・品陀別ほんだわけ命・神功皇后・手力雄たぢからお命。古棟札の写には「八幡宮奉移文永三丙寅三月廿一日宮持地頭中間」とあり、口碑では南都から移したと伝える。年未詳一〇月四日の伊賀国予野荘神人等愁状(春日大社文書)に「大安寺領石打庄」とみえ、当地は大安だいあん(現奈良市)領であったところから、大安寺八幡を勧請したとも考えられる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]行橋市下崎

下崎しもさきの中央部に鎮座する。祭神は誉田別命・多紀理姫命・市寸島姫命・多紀津姫命・足仲津彦命・息長足姫命・武甕槌命・須佐男命・菅原道真。旧郷社。「京都郡誌」によれば、貞観三年(八六一)村人籏家栄純が宇佐宮の霊夢により、こう山の山腹に社殿を建立、自ら神司となった。天正(一五七三―九二)頃兵火にかかり荒廃。慶長(一五九六―一六一五)の初め神官栄雄と郡吏が志を合せ社殿を再建。元和二年(一六一六)現在地に遷座。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]伊方町湊浦

もと伊方浦の枝浦であった佐瀬部させべ、現在のみなと浦に鎮座。祭神は誉田天皇・足仲彦天皇・息長帯姫命。伊方浦・九町くちよう浦・二見ふたみ浦の総鎮守で、旧郷社。社伝によると、貞観一四年(八七二)一一月一六日、宇佐八幡から分霊をうけ伊方浦の総鎮守として勧請された。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]三郷町勢野西二丁目

近鉄生駒線償貴山下しぎさんした駅の北に鎮座。俗に薬隆寺やくりゆうじ八幡という。祭神は誉田別ほんだわけ命。旧村社。東方にあった薬隆寺の鎮守であったと思われる。国指定重要文化財の本殿は一間社春日造・檜皮葺で、解体修理の際に永正一一年(一五一四)の棟木銘が発見された。薬隆寺は寛永九年(一六三二)の興福寺末寺調(興福寺文書)に信貴山寺末寺、「大和志」に「薬隆寺東勢野薬隆寺邑」と記すが、その後廃絶。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]能代市母体字上母体家の下

上母体かみもたいの後背地の高台にある。祭神は応神天皇・宮比大神など。旧村社。

神社明細帳(秋田県庁蔵)には「大同二年丁亥年坂上田村麻呂東夷征伐ノ時勧請、元亀三年壬申四月秋田城之助檜山霧山在城ノ時再建社領三十石ヲ給ス、慶長年間同家奥脇三春遷後其事ヲ廃ス」とある。また「母袋村八幡神社由緒」(檜山郷土史稿)によれば、田村麻呂東征の折に宇佐八幡の本地金鋳三尊を懐中にして発進し、檜山霧山ひやまきりやま城に入り、大内田おおうちだ柏子所かしこどころの蝦夷を攻めたが、容易に落ちず、懐中の三尊を取り出し、霧山城の鬼門を守護させて蝦夷攻略を誓い、ようやく平定したと伝える。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]牛津町大字上砥川字内砥川

大平おおひら山の山麓にある。砥川三所八幡宮の一つで、上宮じようぐうと称し、創立年代は不詳であるが、千葉胤貞の勧請とされ、鶴岡つるがおか八幡宮の分霊といわれる。祭神は足仲彦尊・誉田別尊・気長足姫尊。

「太宰管内志」によると、「砥河三所八幡宮者、千葉何某之創造、而鎌倉鶴岡之勧請也。本宮在内砥川、中宮在谷村、下宮在下砥川、云云。

八幡神社
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[現在地名]中島町大浦 黒岩

大浦おおうら海岸から約二〇〇メートルの地にある。忽那くつな七島の総鎮守。祭神は誉田別尊・大帯姫命・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命。旧郷社。社叢は町指定天然記念物で原始の林相を伝える。

創建年は不詳であるが、「忽那嶋開発記」に藤原親賢が応徳四年(一〇八七)春、大浦岩原に勧請して若宮八幡宮と称したことが記される。嘉保年間(一〇九四―九六)忽那各島に分祀、総鎮守として尊崇された。元和三年(一六一七)に大洲藩祖加藤貞泰は当社を大洲藩領忽那島の祈願所としたが、修理・再建は村民の協力によった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]山添村大字的野小字ババノウラ

的野まとのの南部、布目ぬのめ川を望む丘尾に鎮座。祭神は品陀別ほんだわけ命。旧村社。江戸時代には隣接する医王いおう(現常照院)が別当寺であった。暦応四年(一三四一)に大中臣国長が八幡宮に寄進した石灯籠があり、貞和五年(一三四九)造立の石垣が遺存、「貞和五年己丑六月日造立、一結衆敬白」の刻銘がある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大館市八幡町

大館市街地の東部、藩政期のけい城下の東端に位置する。現祭神は誉田別命・息長足姫命。江戸初期の様式を残した神殿は県有形文化財。大館佐竹氏の氏神であり、武家町である内町の鎮守でもあった。

大館佐竹氏の大館移動とともに移し、万治元年(一六五八)本殿を再建した。左に大八幡おおはちまん(本宮)、右に小八幡しようはちまん(若宮)を納める。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大垣市多芸島

多芸島たぎしま集落の北西部、永寿えいじゆ寺の北西に鎮座する。祭神は応神天皇で、旧郷社。もと多芸大明神といった。式内社の多岐たぎ神社(現養老郡養老町)は同じ多藝郡内にあり、同社に納められた懸仏裏面墨書銘に「応永二年卯月十六日 多藝嶋郷内」とあることから、そのかかわりがうかがわれる。当社の神体として三体の石仏が祀られていたが、明治維新の際の神仏分離によって永寿寺へ移され、代りとして神鏡を鋳造して神体とし、社名も八幡神社と改称。

八幡神社
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[現在地名]名張市滝之原

中出なかでにあり、応神天皇を祀るが、由緒を知る確かな記録はない。明治四一年(一九〇八)表向きは村社国津くにつ神社に合祀されたが、今も祭礼が続く。この神社には「若子祭」あるいは「おまと」とよばれる歩射の神事が古くから伝わる。祭日は一月九日で、血盟の盃・歩射・神前式・祝座からなる悪霊退散を祈る年頭神事が、古来のしきたりによって行われる。参席者のなかで注目されるのは、昔から定まった八家による八人衆の存在である。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]取手市寺田

寺田てらだ集落西部に鎮座。旧村社。祭神誉田別命。社名額には相馬惣代八幡宮とあり、惣代八幡宮ともよばれる。

大同二年(八〇七)現北相馬郡守谷もりや町の西林さいりん寺二世寛海が現京都府の石清水いわしみず八幡宮から分霊鎮祭したもので、平将門の崇敬社、のち守谷城主相馬家累代の氏神といわれている。「下総旧事考」には「八幡社、在寺田村、未詳其来由、祭日八月十五日、別当西福寺、在守谷村、天台宗、隷同所西林寺、社領五石、天正十九年辛卯十一月付、朱印文書記相馬郷」「寺田村ノ八幡祠ニ、総代ト云フ額ヲカク、コレニヨレバ、寺田ハ元ト相馬郷ノ地ナルベシ、且文書ニモ、相馬郷トアリトゾ」とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]横浜町 茅平

通称檜木ひのきの南にある。祭神は誉田別尊。「邦内郷村志」には八幡社として「在檜木村、棟札奉修造正八幡宮社、大檀那源直勝公、慶長□年二月十五日」とあって、慶長年間(一五九六―一六一五)に七戸城代七戸直勝が修復を加えている。明治初年の「新撰陸奥国誌」には、源義家が東国征討のため下向し、帰陣に際し押えとして佐々木権太郎・権次郎兄弟を当所にとどめ、承暦元年(一〇七七)正月当社を勧請、六月一九日に遷宮したという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]湯原町見明戸

青木山あおきやまに鎮座する。旧村社。祭神は誉田別命・息長帯姫命・武内宿禰命の三座。祭日一〇月二二日。由緒は不詳であるが、出雲尼子氏の崇敬があつかったといわれ、尼子氏家臣平助守が大願主となり本殿を建立したと伝える(美作国神社資料)。「作陽誌」は棟札によるとして平助守の建立を文明五年(一四七三)とし、天文一五年(一五四六)には代官舟津新左衛門尉により再建と記す。

八幡神社
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[現在地名]岩村町 大路

岩村城跡の西、国道二五七号の傍らにあり、祭神は応神天皇、旧郷社。創立年は不詳だが、加藤次景廉の創建と伝える。岩村城主が代々崇敬し、城の鎮護として八幡櫓の隣に鎮座していたが、明治六年(一八七三)現在地に移る。城中にあったので民間人の参拝は許されなかった。しかし苗木なえぎ(現中津川市)明知あけち(現明智町)の遠山家からは毎年参拝があったという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]奈良市西大寺芝町二丁目

西大寺西方に鎮座。旧村社。祭神は中殿に誉田別ほんだわけ命、右殿に気長足姫おきながたらしひめ命、左殿に玉依姫たまよりひめ命。もとは西大寺の鎮守で明治維新の神仏分離によって独立。長承三年(一一三四)の南寺敷地図帳案(西大寺文書)には、一条四坊四坪に「西大寺八幡宮供田西小一反」、五坪に「八幡宮敷地」とあるので、それ以前から祀られていた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]内原町杉崎

杉崎すぎさきの西側丘陵の南端に鎮座し、東には水田が広がる。祭神は誉田別命。旧村社。社伝によると源義家が天喜年間(一〇五三―五八)征奥の途次この地に祭祀したという。和光院過去帳(和光院文書)の元亀三年(一五七二)に「杉崎八幡別当」とみえ、「東茨城郡誌」には「天正年中佐竹義宣本社を再営し、五本骨扇の紋章を彫みつく、慶安二年将軍家より十二石を進めらる」と記される。当社には文政七年(一八二四)の棟札がある。大正期(一九一二―二六)に杉崎地内にあった八ヵ所の小祠を当社に集めた際に再建されて現在に至る。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]直島町

極楽寺背後の八幡山(城山)にある。祭神仲哀天皇・応神天皇・神功皇后、旧郷社。社伝によれば、応神天皇が吉備に向かうとき一時直島に逗留、その仮屋跡に島民が社を造営したのに始まるという。その後の沿革は不明だが、崇徳上皇の落胤三宅左京大夫重行の六世孫但馬守源行信が社辺に城を築き居城、延文四年(一三五九)八月一四日夜、湯神楽の火が社殿に移り、城もろとも焼亡したという(直嶋旧跡順覧図会)。その後応永三年(一三九六)社殿を再興、このとき山城石清水いわしみず八幡宮の分霊を勧請したと伝え、慶長六年(一六〇一)時の領主高原氏が神職甚太夫藤原吉久を迎えて本社・摂社・末社の社殿を再興造立したという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]佐倉市大佐倉

大桜おおさくら(旧八幡山御林)に鎮座。祭神は誉田別命。明応三年(一四九四)六月に本佐倉もとさくら(現酒々井町)城主千葉勝胤から修復料として田地を、弘治三年(一五五七)九月に同城主千葉胤富から社領として田地を寄付されたという(神社明細帳)。永禄一一年(一五六八)九月七日の千葉胤富判物(宝珠院文書)には「八幡御神殿拝殿」とみえ、別当寺の宝珠ほうじゆ院が胤富から二貫五〇〇文の支給を受けて当社などの修理を行っている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]山城町粟山

天狗てんぐ岳の南東麓、粟山よそ口あわやまよそぐちに鎮座。祭神は彦火火出見命・埴安姫命・中筒男命。地元では大西おおにし神社と称される。勧請時期は不詳。寛保改神社帳に八幡宮、禰宜久保采女とある。延宝五年(一六七七)の棟札がある。旧盆に境内で行われる鉦踊は県指定無形民俗文化財。総勢二五名で演じられるもので、神輿・神官・供持・芝振・毛槍・挟箱・ハツリ振・薙刀遣い・太鼓・関打・踊子の順で渡御に参加し、御旅所で御祓いを受けた後、境内で鉦踊を奉納する。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川西町洲島

洲島すのしましん町にあり、祭神応神天皇。旧郷社。当社神事に用いた湯釜の銘に「嘉応二年四月三日津島村」とあったといわれ(川西町史)、嘉応二年(一一七〇)当時津島つしまと称されていたと思われ、のち洲島と称されたのであろう。中世には東野ひがしの八幡宮と称し、社領も多く、郷中の総鎮守として尊崇されたと伝える。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]武芸川町八幡

大字八幡の北東の丘陵地に鎮座し、旧郷社。祭神は応神天皇。武運長久の神として武将の崇敬が厚く、武義八幡・武藝八幡とも記す。創建は不明だが、観応二年(一三五一)森又郎源泰朝が社殿を再興(濃飛両国通史)。社蔵の獅子頭口内陰刻銘には「観応二年本社再建残木ニ而作候」とある。永正五年(一五〇八)美濃守護代斎藤妙椿の命により、同年六月日の長井利隆禁制(八幡神社文書)が「武義八幡并神宮寺」に出されている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]総和町大堤 八幡原

大堤おおつつみ集落北部に鎮座。石鳥居の献額に「正一位八幡宮」とある。拝殿前に二本の大銀杏がある。祭神誉田別命。旧村社。長禄元年(一四五七)古河公方足利成氏が社殿を造営し、鎌倉八幡宮より分霊を迎えて鎮斎。正徳五年(一七一五)再建、文政一二年(一八二九)修営。神体は乗馬姿の神像で木像と伝えられる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]奈義町柿

かき集落北部に鎮座。祭神は誉田別尊で、旧村社。江戸時代は八幡宮とよび、「東作誌」によると美作国六六社の一で柿村の鎮守。祭日九月一五日(現在は一〇月一五日)。本社・拝殿があり、末社は稲荷・善覚大明神。境内除地は東西一町半・南北二町余であった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]小鹿野町飯田

河原沢かわらさわ川沿いにある。応神天皇を祀り、旧村社。氏子である播磨家の口碑によると、平家の落人である播磨一党の七名が播磨国から修験となって流浪して当地に土着し、人目を避けて地内八幡淵の岩屋に当社を祀ったのが草創といい、その後現在地に移ったと伝える。江戸期の神職は近藤家が勤め、近藤正信は万治二年(一六五九)二月、吉田兼連から神道裁許状(八幡神社文書)を受けている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]耶馬渓町大野

大野おおの八幡神社とよばれ、別名鶴岡つるおか八幡宮。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・比大神。旧郷社。社伝によれば、応永元年(一三九四)長岩ながいわ城主野仲弘道が鎌倉より勧請し、天正一六年(一五八八)中津城主黒田孝高が長岩城主野仲鎮兼を攻めた時、兵火によって炎上、元和元年(一六一五)再興という。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]土岐市妻木町

崇禅そうぜん寺北方にある。祭神は品陀和気尊。旧郷社。創建年代は不明だが、土岐氏が妻木郷地頭となったときその氏神として造営されたとも、妻木つまぎ城の守護神として築城ののち造営されたとも伝えられる(妻木町史)。社蔵の棟札は文安元年(一四四四)五月一日のものが最も古く、銘文に「大檀那源頼俊」とある。頼俊は妻木氏。当社は近世まで妻木氏累代の氏神として厚く信仰され、妻木村内に社領九九石があり(旧高旧領取調帳)、鳥居の右側に神宮寺の大鏡寺(明治一〇年廃絶)があった。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川西町西大塚

西大塚にしおおつか八幡林はちまんばやしにあり、祭神応神天皇ほか五柱。旧郷社。創建年代はつまびらかでないが、口碑によれば、康平年中(一〇五八―六五)源義家が安倍貞任追討のとき大塚の西原にしはらに陣し、戦捷を祈らんがため一祠を創建し、赤坂あかさか八幡宮と号したという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]上那賀町海川

海川谷かいかわだに川右岸の国道一九三号沿いの字ヲフウチにある。旧郷社。もとは十二社権現とも称した。祭神は誉田別命・大鷦鷯命・天穂日命・奥津彦命・奥津姫命・金山彦命。寛保改神社帳によると八幡宮とあり、木頭上山きとうかみやま(現木頭村)にはほかに八幡宮が六社ある。「阿波志」では当村に八幡祠が一二社あると記す。現在はこれらの小祠も合祀されている。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]丸岡町長畝

祭神は応神天皇。旧村社。社伝によれば、藤原利仁将軍の子孫として著名な斎藤実盛の守本尊を祀る小堂であったと伝える。その後一時廃絶したが、寛文年間(一六六一―七三)丸岡まるおか城主本多重昭が社地九段余を寄進して丸岡城の鬼門除けの守護神として再興、元禄一〇年(一六九七)丸岡城主有馬清純も社領一〇〇石を寄進し、真言宗尼宝山中台ちゆうだい寺をその別当としたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]総和町高野 榎戸

高野こうや集落東南部に鎮座。高野八幡・北向きたむき八幡ともいい、社殿は北向き。拝殿献額に「正一位高野八幡宮」とある。神楽殿もあるが建造物は荒廃している。祭神誉田別命。旧村社。伝説では天慶三年(九四〇)に平将門の首が飛んできて当地の大樹にかかり七日七夜の間光を放った。金剛坊という者が祈念して首を棺に納めて埋葬し、傍らに八幡神社を南面に建立したが、一夜で北面した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]男鹿市船川港増川 宮ノ下

船川港増川ふながわみなとますがわの北西の丘陵中腹に位置する。祭神は誉田別命など。文化元年(一八〇四)の「男鹿の秋風」に「頭殿八幡宮」とあり、「絹篩」にその由来を記す。享徳四年(一四五五)の紀年銘をもつ扇形懸仏残欠が伝わる。銅打造ではめ込みの裏板に「男鹿嶋鱒川 享徳四年閏四月吉日 願主 平泰春敬白」とある。安東太郎平泰春とすれば、享徳四年に生存したのは安東成季にあたる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]下田市一丁目

双乳そうにゆう(一二三メートル)の東麓にある。祭神は誉田別命。旧村社。創建は正応年間(一二八八―九三)という。裏山から出土した鰐口には応永六年(一三九九)六月一日の年紀と「下田村若宮」大願主平良盛とある。永正四年(一五〇七)に再建され、慶長一五年(一六一〇)金山奉行大久保長安が社殿を造営したという(増訂豆州志稿)。慶安二年(一六四九)高七石三斗の朱印地(下田町二石四斗余、岡方村四石八斗余)を寄進される。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]浜松市貴平町

旧村社。祭神は誉田別命で、ほかに大宮・中宮・沖宮を祀る。これは聖徳太子の三王子とする説と(浜松市神社名鑑)、内藤家の祖である秦河勝の末子が連れてきた王子とする説がある(豊西村誌)。建武四年(一三三七)一二月一二日、足利尊氏は貴平きへい郷地頭職を遠江国府八幡宮(現磐田市の府八幡宮)に寄進しており(「足利尊氏寄進状」秋鹿文書)、当社はその時ないしは以後に遠江国府八幡宮の分霊を勧請したものであろう。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川井村川内

川内かわうち館跡の南方柏木かしわぎにあり、品陀和気命を祀る。旧村社。閉伊七所明神の一つで、もとは川内明神と称した。閉伊頼基の臣猪狩右馬之丞諸深が川内の地を治めるにあたって根城ねじよう(現宮古市)の八幡宮より勧請、のち諸深が頼基の死に殉ずるに及んで承久二年(一二二〇)その霊を合祀したと伝える。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]瑞穂町西郷

船津名ふなつみように鎮座。祭神は誉田別命・息長足姫尊・足仲彦命。旧村社。文明八年(一四七六)豊前宇佐宮の分霊を勧請、木場こば名に創建したと伝える。のち洗磯崎あらいそざき神社の境内(現在地)に移され、本殿・拝殿を造営したが、同社は宝永年間(一七〇四―一一)以降に境内社になったとされる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]日吉町日置

日置の東部に位置する。日置八幡ともいう。祭神天照大神。旧郷社。永禄年中(一五五八―七〇)に新田宮を勧請し、初めは伊集いじゆう院の谷口たにぐちにあったという(薩隅日地理纂考)。のち現在地に移された。文禄四年(一五九五)島津常久が領内総鎮守と定め、歴代領主の崇敬が厚かったと伝える。江戸時代、九月一五日の正祭には大王面を着け大木刀を差した竹偶人を四輪車に乗せ、童が前の馬場で引いた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]有家町大苑

旧村社。祭神は誉田別命。創建年代は未詳ながら、天正一二年(一五八四)肥前佐賀の龍造寺隆信との合戦で有馬晴信に味方して参陣した島津家久は、その勝利を当社の加護によるものとし、以後厚く崇敬して神領を寄進し、鳥居の造営などを行うとともに、例祭には奉幣使を送ったという。寛永一四年(一六三七)の島原の乱では社殿を焼失したが、同一六年再建。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]亀田郡椴法華村字八幡町

村中央部の海岸付近に鎮座する。祭神誉田別命、旧郷社。社伝によれば延宝年間(一六七三―八一)飯田与五左衛門が豊前宇佐宮の分霊を勧請、山の頂上に奉祀したのに始まるという。文化(一八〇四―一八)初年の頃参詣が困難なことから現在地に移した。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]古河市本町二丁目

ほん町二丁目と三丁目の間の通り(近世の八幡やはた町)に面して鎮座。祭神誉田別命・気長足姫命。旧村社。例祭八月一八日。八幡宮再興願記(吉羽庫次文書)によれば文安三年(一四四六)古河公方足利成氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して、古河城第三の郭に創建したのに始まり(文安三年は成氏の古河入城以前で矛盾)、寛永一九年(一六四二)現在地に移ったという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]豊郷町石畑

祭神誉田和気ほんだわけ命。延応元年(一二三九)那須与一宗高の次男石畑民部大輔宗信が山城男山八幡宮から勧請したと伝える(豊郷村史)。宗信は六角氏の旗頭として石畑いしばたけを領していた。境内には樹齢七〇〇年という欅がそびえる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]野田川町字四辻 上谷

小字上谷うわがやの小高い丘陵上に鎮座。祭神誉田別命。江戸時代には八幡菩薩と称し、八幡山宝泉ほうせん寺が別当職であった。旧村社。

社殿に嵯峨天皇作と伝える古神像を蔵し、境内の、本殿に向かって右側に八角形の石灯籠一基(総高二・四八メートル)がある(重要文化財)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]滝沢村大釜 上釜

八幡館はちまんたて山の麓に位置し、祭神保田和気之命、旧村社。「ドンツク八幡サマ」の名で知られる。安永九年(一七八〇)の厨川通絵図(盛岡市中央公民館蔵)によれば、村の西の小高い山の中に社と鳥居が描かれ、八幡宮とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]東祖谷山村栗枝渡

旧村社。祭神は誉田別命・安徳天皇。讃岐国屋島やしま(現香川県高松市)での戦に敗れた平氏が、安徳天皇を奉じて当地に至り行在所を設け、さらに八幡を祀ったと伝える。「阿波志」に創建年代不詳、応永二五年(一四一八)重造とある。また神牌、琵琶二面、寛正年間(一四六〇―六六)に鋳造された小鐘を所蔵していたとする。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]岩井市神田山新田

神田山新田かどやましんでんの中央、大字神田山の便無びんなしに向かう坂の西に鎮座。祭神誉田別命。旧村社。例祭は八月一五日の甘酒祭で、四斗の甘酒を献納し、祭典後氏子などに配られる。当社は名越家累代の崇敬祈願社。享保一三年(一七二八)本村の神田山村名主名越武右衛門らによって創建。検地の際にも見捨地とされた。寛保三年(一七四三)に武右衛門は、家祖の神田山城主名越若狭守義綱が守護神とした神像を奉じて本村より新田に隠居。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]三崎町三崎

祭神は品陀和気命・多紀理姫命・狭依姫命・多岐津姫命・息長帯姫命。旧郷社。

「宇和旧記」には、「正八幡、開基不知、棟札もなきよし」とある。社伝によれば貞観二年(八六〇)石清水いわしみず八幡宮から勧請し、さらに翌年、宇佐八幡宮から勧請したものという。三崎浦の氏神であったが、しだいに各集落にも氏神の社が創建され、八幡神社は総氏神あるいは大氏神と称されたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]小松島市立江町

青森の立江あおもりのたつえ川の東岸近くにある。主祭神は誉田別命・帯仲彦命・息長足比売命。旧郷社。古くは四方を海に囲まれた島であったとされ、文明三年(一四七一)豊前宇佐宮の分霊を勧請したと伝える。「阿波志」によれば、おお宮と称する八幡祠は慶長一六年(一六一一)に源兼幸が修造したという。寛保改神社帳には立江八幡宮とみえ、慶長一六年の棟札(再興か)があると記される。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]徳島市下助任四丁目

下助任しもすけとう四丁目の東端にある。旧郷社。主祭神は誉田別命・息長足姫命・市杵島姫命・多紀理比売命・田寸津比売命。創建年代は明らかでない。八幡大菩薩とも称し、北辺渭北いほく地域の総氏神として崇敬されたという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]森吉町阿仁前田 八幡

阿仁あに川に向かって突き出た八幡はちまん森に存立。中世の館神であったと思われるが、江戸期は村鎮守。現祭神は日本武尊・素戔男命・大己貴大神。「秋田風土記」に「古城あり。鳥海某と云者住せり。天正の始加成資清是を亡すと云。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]神岡町神宮寺

祭神は応神天皇。旧県社。「月の出羽路」によれば、大同二年(八〇七)坂上田村麻呂建立の棟札、延久三年(一〇七一)源義家の再建棟札、建久三年(一一九二)源頼朝の再建棟札があり、観応元年(一三五〇)には戸沢氏が再建し、知行三〇石が与えられている。佐竹氏入部後は、米五石が神宮寺村の貢租のうちから御神料として与えられた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]豊川市牛久保町

祭神品陀和気命。旧郷社。創立年代は不詳。安永二年(一七七三)の再建。天文三年(一五三四)四月八日の牧野民部丞平成勝寄進状写(八幡神社蔵)に「若宮八幡宮宝前 牛窪郷之内於本所方五貫文之地奉進納所也」とある。「牛久保密談記」に「此御殿、古代ハ城中ニ有リ。御先祖ノ魂屋也。後ニ城ノ外ニウツシ、氏神三社ニアガメ奉ル。古来ヨリ額若宮ト云フ」と記す。

四月八日の例祭若葉祭は俗称うなごうじ祭という。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]大曲市丸の内町

祭神は誉田別神・仲姫神・大帯姫神。創建は近世以前にさかのぼるとみられるが、委細未詳。社寺明細調抄(大曲町史資料)に由緒について「年月不詳ト雖トモ、豊前国宇佐郡宇佐八幡神社勧請」とある。文化一二年(一八一五)の「秋田風土記」には「八幡社 五月十五日祭礼、湯立神楽別当金剛院」とある。

境内に石造五重塔一基があり、「虎王丸碑」ともよばれる。塔の高さは二・二メートル、塔身に元亨三年(一三二三)の紀年銘がある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]成田市芦田

だいに鎮座する。旧郷社。祭神は応神天皇。天暦八年(九五四)の創建と伝える。中世には千葉一族の信仰が厚く、建仁年間(一二〇一―〇四)にはその支族の和泉いずみ(東和泉城)城主大須賀加賀守によって社殿が再建されたという。社前には八幡様の馬場と称する直線の道があり、毎年一月一五日の大祭には草競馬が行われた。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]合川町上杉字塚ノ岱

上杉かみすぎ集落東の高台の上にあり、現祭神は誉田別命・宇迦能御魂命・豊受大神。上杉館の館神で江戸期は村鎮守。鎌倉末期創立の伝承を残し、文禄年間(一五九二―九六)上杉半左衛門が再建したという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川井村川井

中川井にあり、閉伊川・小国おぐに川の落合に向かって鎮座。閉伊七所明神の一つで、古くは川井明神と称し、閉伊・小国両川の合流点をつかさどる川の神を祀ったところと思われる。祭神は品陀和気命で、旧村社。閉伊の地頭閉伊頼基の死に殉じた家臣の一人、安蘇権太郎重休の霊を祀り、承久二年(一二二〇)の創立とされる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]玉山村日戸 古屋敷

日戸ひのとのほぼ中央、日戸館跡の南端に位置する。祭神誉田和気命、旧村社。正慶年中(一三三二―三四)南部信長の代に日戸氏の祖川村飛騨守が戦功により日戸村に封ぜられ、その孫秀盛が八幡宮を勧請して氏神として祀ったと伝える(岩手郡誌)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]会津若松市一箕町八幡

不動ふどう川の左岸、一箕山にあり、祭神は応神天皇。一箕八幡と通称される。縁起によると、寛治年中(一〇八七―九四)源義家が後三年の役が終わって凱旋するにあたり、従卒並びに役夫一人に一箕の土を運ばせて丘陵を築き、上に社殿を造り八幡宮を勧請したので、一箕山と名付けたという(新編会津風土記)

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]月ヶ瀬村大字桃香野

小字マトバに鎮座。祭神は品陀別ほんだわけ命。境内の善法ぜんぽう(真言宗御室派)は神宮寺と考えられる。「大和志」は東大寺八幡・薬師寺八幡とともに添上そえかみ郡下の三所の八幡神祠の一にあげ、「一在桃香野村名張川側、河水謂之御手濯、涯下曰鏡池」と記す。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]雄物川町沼館

沼館ぬまだて集落の北端部の街道沿いに位置する。

「秋田風土記」に、創建に関し「武衡を山田の城に討て合戦勝利の時、義家朝臣守袋の尊像(一寸八分、閼浮檀舎の秘仏なり)を安置し十五間四面の堂を造立す」とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]一色町松木島 宮東

道路沿いに鎮座。誉田別尊を祀る。弘治年間(一五五五―五八)木曾義仲の家臣の末裔が来住して開拓、居宅の西北隅に松を植え、小祠を建て、源氏の守護神八幡大神を奉祀したのが始まりと伝える。天正年間(一五七三―九二)に至り、家数一七に達し、村の鎮守となる。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]鹿角市花輪 八幡館

中野氏(南部氏)の氏神で、花輪館跡に鎮座。本丸南西部の大手口にあるが、ほかに北館に若宮八幡、本丸南東部の作場通路東手にも小八幡があった。明治に合祀されて一社となる。創建について天保一二年(一八四一)の御用留帳(花輪町史編纂資料)に「花輪御館御本丸 八幡宮 慶長七年大光寺左衛門佐正親為城主御造営 其後慶長九年利直公より御絵像左衛門佐被下置 裏ニ慶長九年甲辰八月十五日信心之大檀ト御記」とある。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]岩井市長須 西原

長須ながす集落の西北、三村みむら街道に沿い、欅の巨木に囲まれて鎮座。祭神誉田別命・経津主命。旧村社。献額に「香取大神 八幡大神」とある。古来より八幡宮として崇敬され、高倉天皇・後醍醐天皇・後円融天皇・後土御門天皇・後奈良天皇などから綸旨を得たという。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]川棚町石木郷

北に八幡山がある。旧村社。祭神は誉田別命。創建年代は未詳ながら、天和二年(一六八二)銘棟札によれば、氏子中が境内に薬師堂を建てたという。この頃、大村藩四代藩主大村純長が国家安全・武運長久を祈って拝殿を建立。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]十和田市切田 下切田

祭神は誉田別尊。宝暦(一七五一―六四)頃の御領分社堂に八幡宮とみえ、別当は修験良覚院である。伝承によれば勧請は南部光行の糠部ぬかのぶ下向と同時とも、光行の子の実光以後のことともいう。

八幡神社
はちまんじんじや

[現在地名]小牧市南外山 北浦

隣にある妙楽みようらく寺の記録によれば、文保二年(一三一八)僧日澄が熱田(現名古屋市)から来て妙楽寺を創建した時、宗門守護のため隣地に八幡宮を勧請したとある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「八幡神社」の意味・わかりやすい解説

八幡神社
はちまんじんじゃ

岐阜県高山市桜町に鎮座。応神(おうじん)天皇、熱田(あつた)大神、香椎(かしい)大神を祀(まつ)る。古来より桜山八幡宮、高山八幡宮とも称されている。社伝によれば、仁徳(にんとく)天皇の御代(みよ)に創建されたという。また延元(えんげん)年間(1336~40)に勧請(かんじょう)されたとする説、さらに『和漢三才図会(ずえ)』に「八幡宮高山にあり大永(たいえい)年中(1521~28)石清水神(いわしみずのかみ)を勧請す」ともみえている。1871年(明治4)6月郷社に列し、1932年(昭和7)4月県社となる。例祭は10月9、10日。秋の高山祭で有名な例祭には、山車(だし)や闘鶏楽(かんこかん)、囃子組(はやしぐみ)などが出る。山車は動く陽明門とも称され、四輪の車の上に上中下三段の屋台を構えている。

[落合偉洲]


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事典 日本の地域遺産 「八幡神社」の解説

八幡神社

(岐阜県大垣市西外側町1-1)
大垣市景観遺産」指定の地域遺産。
中世に大井荘と呼ばれ東大寺領であったため、東大寺の鎮守を勧請して造営された

八幡神社

(東京都練馬区高松1-16)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

世界大百科事典(旧版)内の八幡神社の言及

【勧請】より

…有名な勧請の例としては,鹿島・香取・枚岡(ひらおか)の各社から勧請した奈良の春日大社,九州の宇佐八幡から勧請した東大寺八幡(手向山(たむけやま)八幡)・石清水八幡,石清水八幡から勧請した鎌倉の鶴岡八幡があげられる。全国に分祀されている八幡神社は,宇佐,石清水,鶴岡のいずれかの八幡宮を本祀として勧請したものが多い。八幡の勧請には,石清水の神領拡大に伴って領主側から積極的に分祀勧請した例や,鎌倉御家人が西遷するにあたり,幕府守護社たる鶴岡八幡を奉じて領地内に勧請した場合が多い。…

※「八幡神社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」