河内郡(読み)かわちぐん

日本歴史地名大系 「河内郡」の解説

河内郡
かわちぐん

面積:一九〇・八二平方キロ
上河内かみかわち村・河内かわち町・上三川かみのかわ町・南河内みなみかわち

県中央部よりやや南寄りに位置し、明治二九年(一八九六)の市制施行によって当郡から分離した宇都宮市を中心にして、北部の上河内村・河内町の二町村、南部の上三川町南河内町の二町に分断されている。北部の二町村は、北は塩谷郡塩谷町、東は鬼怒川を隔てて同郡氏家うじいえ町・高根沢たかねざわ町、北西部は今市市、西から南にかけ宇都宮市と、南部の二町は、北は宇都宮市、東は真岡もおか市・芳賀はが二宮にのみや町、南は小山おやま市、西は下都賀しもつが石橋いしばし町・国分寺こくぶんじ町と接している。北部も南部も東部郡境付近を鬼怒川が南流しおおむね平坦、北部の西方は起伏した山地が連なるが、南に至るにしたがい平地となる。郡名は鬼怒川とくろ川との間に位置することにちなむという。旧郡域は現郡域および宇都宮市の大部分と今市市東半、鹿沼市東部に及んでいたと推定されている。

〔原始・古代〕

宇都宮市大谷寺おおやじ洞穴遺跡からは、縄文早期の細隆起線文土器・竹管文土器が出土し、標式遺跡とされている。このほか縄文期の遺跡は根古谷台ねごやだい遺跡・御城田おしろだ遺跡(宇都宮市)山の神やまのかみ遺跡・うばいり遺跡(河内町)梨木平なしのきだいら遺跡(上河内村)など各所に確認されている。弥生時代の遺跡では中・後期の標式遺跡の野沢のざわ遺跡・二軒屋にけんや遺跡(宇都宮市)が著名で、上三川町の仏沼ほとけぬま遺跡なども発見されている。古墳時代では大塚新田おおつかしんでん古墳・塚原つかはら古墳群(河内町)御鷲山おわしやま古墳・三王山さんのうやま古墳群(南河内町)兜塚かぶとづか古墳(上三川町)笹塚ささづか古墳・塚山つかやま古墳(宇都宮市)などが知られ、南河内町の薬師寺南やくしじみなみ遺跡は古墳時代から奈良・平安時代に至る大規模な集落跡として知られる。また上三川町の上神主かみこうぬし遺跡と多功たこう遺跡は、ともにかつては寺跡とされていたが、近年では奈良時代の河内郡家か郡寺の跡とみられている。

「和名抄」では丈部はせつかべ刑部おさかべ大続おおおみ酒部さかべ三川みかわ財部たからべ真壁まかべ軽部かるべ池辺いけのべ衣川きぬがわ駅家うまやの一一郷が記される。秋田城跡出土木簡に「河内郡(財カ)部郷」とある。「万葉集」巻二〇(防人の歌)に、河内郡上丁神麻績部島麿の一首がみえ、「続日本紀」慶雲四年(七〇七)三月二二日条では下毛野朝臣石代が下毛野川内朝臣と改姓することを許されていることなどから、これより先、すでに河内郡の郡名があったと推定される。


河内郡
かわちぐん

「和名抄」にみえ、訓は国名に同じ。北は讃良さらら郡、西は若江郡、南は高安郡に接し、東は生駒山地で大和国に接する。古代・中世では郡の北西部、若江郡との間に深野ふこの池などの湖沼・湿地が存し、可耕地は現在よりかなり狭小であったと思われる。「古事記」雄略天皇段の歌謡に「日下江の入江の蓮花蓮身の盛り人羨しきろかも」とある日下くさか江は、その湖沼の一部であろう。この湖沼と、それへ流入する玉串たまくし(吉田川)とが若江郡と当郡の境界であったと思われる。現在の行政区域では、ほぼ東大阪市の東半部(もとの枚岡市の全域と河内市の東部)八尾やお市の一部。

〔古代〕

「和名抄」によると、当郡には英多あがた新居にいい桜井さくらい大宅おおやけ豊浦とようら額田ぬかた大戸おおべの七郷が存した。うち豊浦郷は東急本にはみえない。右の諸郷のほかに、永保元年(一〇八一)の河内国石凝寺々地等免判抄(教王護国寺文書)に「河内郡早郷」がみえる。また「行基年譜」には「河内郡早村」がある。いずれも日下郷・日下村(現東大阪市)をさすのであろう。「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年四月条にみえる母木おものき邑も当郡内にあったと思われる。式内社は枚岡ひらおか神社四座など計一〇座六社。郡名は、「続日本紀」神護景雲二年(七六八)二月五日条に「河内国河内郡の人日下部意卑麻呂に姓を日下部連と賜う」とあるのが初見であるが、この地域には著名な縄文時代遺跡の日下貝塚(東大阪市)をはじめ、古墳時代後期の芝山しばやま古墳(同市、消滅)山畑やまはた古墳群(同市)など多くの遺跡が存し、早くから栄えた地域である。

「日本書紀」安閑天皇元年閏一二月条の、摂津三島の竹村みしまのたかふ屯倉(現茨木市)の成立事情を述べたところに、大河内直味張が「郡毎に钁丁春時に五百丁、秋時に五百丁を以て天皇に奉献し、子孫も絶たじ」といったとあり、「蓋し三島の竹村屯倉は、河内県の部曲を以て田部とすることのはじめ、是に起る」という。文意やや通じにくいところがあるが、六世紀頃大河内氏の勢力下にあった河内県が河内郡の前身であろう。大河内直は凡河内直とも書き、天照大神の子天津彦根命を祖とすると伝えられる神別氏族である(「日本書紀」神代・瑞珠盟約条、「新撰姓氏録」河内国神別)。天武天皇一二年(六八三)九月に他の神別氏族とともに連姓を賜り、さらに同一四年六月に忌寸姓を賜って、凡河内忌寸となった。この大河内氏と別系統の氏族に河内直がある。「日本書紀」欽明天皇二年七月条に朝鮮南部の「安羅の日本府の河内直」が新羅と計を通じた由がみえ、その分注に「百済本記に云ふ、加不至費直、(中略)未だ詳かならず」とある。


河内郡
かつちぐん

「和名抄」刊本郡部に「河内」とある。「常陸国風土記」は河内郡の記載を欠くが、筑波郡の四至に「南は河内の郡」、信太しだ郡の四至に「北は河内の郡なり」とあり、同書逸文(塵袋)には「常陸国河内ノ郡。浮嶋ノ村ニ鳥アリ」ともある。また「三代実録」貞観四年(八六二)七月二日条に郡名が載る。建郡は不詳であるが、「常陸誌料郡郷考」は信太郡と同じく筑波・茨城の二郡を割いて設置したといい、「新編常陸国誌」は筑波郡を割いて設置したという。郡家の所在地は現稲敷いなしき牛久うしく城中じようちゆうに比定されてきたが、現在は現新治にいはり郡桜村金田こんだの台地にあって湮滅した遺構が有力視されている。東は一部霞ヶ浦に臨むほか信太郡に接し、北は筑波郡、西は毛野けの川、南は現利根川に面する境域である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の河内郡の言及

【河内】より

…だいたい今日の安陽・新郷2地区を占め,古代文化の発生地の一つである。戦国時代には魏国の領土で,漢代その西部に河内郡がおかれ,のち懐州とも称し,明・清時代には懐慶府といわれた。行政中心は初め懐県であったが,晋代に野王県に移り,隋代以後,河内県と改められたのであって,今日の沁陽(しんよう)県に当たる。…

※「河内郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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