朝日日本歴史人物事典 「紀名虎」の解説
紀名虎
生年:生年不詳
平安前期の貴族。勝長(梶長とも)の子。承和2(835)年従五位上,同10年正四位下。この間備前守,中務大輔を経て翌11年刑部卿に補任。このスピード昇進は娘種子を仁明天皇に,同じく静子を文徳天皇にいれたことによるもので,前者は常康親王,真子内親王を,後者は惟喬,惟条親王などをもうけている。嘉祥3(850)年文徳は藤原良房への気兼ねから第1皇子の惟喬親王をさしおき,良房の外孫で生後8カ月の惟仁親王(のちの清和天皇)を立太子したが,両親王の立太子をめぐり,名虎と良房とがそれぞれ加持祈祷させたとも,ふたりが相撲をとって勝負を決めたともいい,また敗れた名虎が血を吐いて死んだといった話もあるが(『江談抄』『平家物語』),名虎は3年前に没しており,史実ではない。惟喬親王の不遇に対する同情が生んだ伝説とみるべきものである。2男3女あり(『紀氏系図』)。
(村井康彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報