デジタル大辞泉
「有智子内親王」の意味・読み・例文・類語
うちこ‐ないしんのう〔‐ナイシンワウ〕【有智子内親王】
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うちこ‐ないしんのう‥ナイシンワウ【有智子内親王】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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有智子内親王 (うちこないしんのう)
生没年:807-847(大同2-承和14)
嵯峨天皇の皇女で,女流詩人。4歳で賀茂斎院となり,斎院生活の日々を,《史記》や《漢書》の中国古典に親しみ詩作にいそしんだ。その若き日の漢詩作品が《経国集》に8首,《雑言奉和》に1首,《続日本後紀》に1首みえるが,多くは応製奉和の作。823年(弘仁14)17歳の時,斎院花宴行幸があり,春日山荘の七律に〈林に栖(す)む孤鳥も春の沢(うつくしび)を識(し)り,
(たに)に隠るる寒花も日の光に見(あらわ)るる〉と詠み,父帝より嘆賞の七絶を賜り三品に叙せられた。また詩人を召し詩会をひらく料として封100戸を賜り,831年(天長8)斎院をやめて嵯峨の西荘に住み,41歳で没した。彼女は皇女斎院の初めで,後年賀茂斎院を中心とする女房社会が王朝女流文芸を生み出す一つのエネルギー源となるそのさきがけである。《巫山高》など楽府題の五律や,張志和(中唐粛宗の代の詩人)の《漁夫歌》に模した《漁歌子》のごとき塡詞(てんし)(詞(し))の作があることは,その詩風の優麗さと,唐詩の動向に敏感であったことを示している。
執筆者:川口 久雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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百科事典マイペディア
「有智子内親王」の意味・わかりやすい解説
有智子内親王【うちこないしんのう】
平安前期の女流漢詩人。〈うちしないしんのう〉とも。嵯峨天皇の皇女。幼くして賀茂の最初の斎院となり,斎院をやめたあとは嵯峨の山荘で過ごした。823年2月,嵯峨天皇が斎院の行幸の折に花の宴を催し,従者に〈春日の山荘〉という題で詩を作らせたところ,内親王の詩が優れていたので,三品を賜った。詩人にも作りにくいとされる填詞(てんし)(詞)をも作っているほどの才媛で,《経国集》《雑言奉和》《続日本後紀》に10首ほどの詩が残っている。
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有智子内親王
没年:承和14.10.26(847.12.7)
生年:大同2(807)
初代の賀茂斎王(斎院)。平安時代の漢詩人。二品。嵯峨天皇と宮人交野女王の皇女。弘仁1(810)年,4歳で嵯峨天皇の創始した賀茂社の斎王となり,洛北紫野にあった斎院で神に仕える日々を送った。早くから詩文に長じ,弘仁14(823)年春,斎院での花宴に訪れた天皇に七言律詩を献じて感嘆させ,「文人を召す料」,すなわち詩会などを催すための費用として封100戸を与えられている。こうしたことが先蹤となり,都に近いこととあいまって斎院に文学サロンが生まれたことに留意したい。天長8(831)年病によって斎院を退き,晩年は嵯峨西荘に閑居した。『続日本後紀』『経国集』に詩を収める。その墓と伝えるものが嵯峨の落柿舎の西にあり,俗に姫明神と称される。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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有智子内親王
うちこないしんのう
(807―847)
平安前期の漢詩人。嵯峨(さが)天皇の皇女。広く漢籍に通じ、詩や文章に長じていた。若くして賀茂斎院にたったが、823年(弘仁14)に天皇の行幸があり、斎院で花宴が催された。このおり七言律詩をつくって天皇を感心させ、その功績によって三品(さんぼん)を授けられた。833年(天長10)二品に叙せられ、晩年は嵯峨の地に過ごした。作品は『経国(けいこく)集』や『雑言奉和』に残っているが、表現はむだな修辞を排して直截(ちょくせつ)で、素材の面などに嵯峨天皇の影響がうかがえる。
[金原 理]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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有智子内親王 うちこないしんのう
807-847 平安時代前期,嵯峨(さが)天皇の皇女。
大同(だいどう)2年生まれ。母は交野(かたのの)女王。弘仁(こうにん)元年初代の賀茂斎院となる。漢詩文にすぐれ,14年斎院の花宴のときつくった詩が父天皇に賞賛され,三品(さんぼん),封100戸をさずけられた。承和(じょうわ)14年10月26日死去。41歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の有智子内親王の言及
【斎院】より
…伊勢神宮の斎宮にならって設置された。平安時代の嵯峨天皇皇女,[有智子(うちこ)内親王]に始まり,鎌倉初期の後鳥羽天皇皇女の礼子内親王に至り,その後は廃絶した。卜定によって斎院となった女性は宮城内に設けられた初斎院での3年間の潔斎を経て斎院(場所としての)に移る。…
※「有智子内親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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