嵯峨天皇の皇女で,女流詩人。4歳で賀茂斎院となり,斎院生活の日々を,《史記》や《漢書》の中国古典に親しみ詩作にいそしんだ。その若き日の漢詩作品が《経国集》に8首,《雑言奉和》に1首,《続日本後紀》に1首みえるが,多くは応製奉和の作。823年(弘仁14)17歳の時,斎院花宴行幸があり,春日山荘の七律に〈林に栖(す)む孤鳥も春の沢(うつくしび)を識(し)り,(たに)に隠るる寒花も日の光に見(あらわ)るる〉と詠み,父帝より嘆賞の七絶を賜り三品に叙せられた。また詩人を召し詩会をひらく料として封100戸を賜り,831年(天長8)斎院をやめて嵯峨の西荘に住み,41歳で没した。彼女は皇女斎院の初めで,後年賀茂斎院を中心とする女房社会が王朝女流文芸を生み出す一つのエネルギー源となるそのさきがけである。《巫山高》など楽府題の五律や,張志和(中唐粛宗の代の詩人)の《漁夫歌》に模した《漁歌子》のごとき塡詞(てんし)(詞(し))の作があることは,その詩風の優麗さと,唐詩の動向に敏感であったことを示している。
執筆者:川口 久雄
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(村井康彦)
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平安前期の漢詩人。嵯峨(さが)天皇の皇女。広く漢籍に通じ、詩や文章に長じていた。若くして賀茂斎院にたったが、823年(弘仁14)に天皇の行幸があり、斎院で花宴が催された。このおり七言律詩をつくって天皇を感心させ、その功績によって三品(さんぼん)を授けられた。833年(天長10)二品に叙せられ、晩年は嵯峨の地に過ごした。作品は『経国(けいこく)集』や『雑言奉和』に残っているが、表現はむだな修辞を排して直截(ちょくせつ)で、素材の面などに嵯峨天皇の影響がうかがえる。
[金原 理]
…伊勢神宮の斎宮にならって設置された。平安時代の嵯峨天皇皇女,有智子(うちこ)内親王に始まり,鎌倉初期の後鳥羽天皇皇女の礼子内親王に至り,その後は廃絶した。卜定によって斎院となった女性は宮城内に設けられた初斎院での3年間の潔斎を経て斎院(場所としての)に移る。…
※「有智子内親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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