日本歴史地名大系 「紫福村」の解説
紫福村
しぶきむら
現
中世には紫福郷とよばれる地であった。慶長一五年(一六一〇)の検地帳では、紫福郷として総石高三千二八二石余、うち田は二三四町余で高二千八五四石余、畠は一〇九町余で高二九九石余、ほかに小物成として一四石余などがあった。宮本八郎右衛門文書(「閥閲録」所収)の寛永一二年(一六三五)正月一三日付の毛利秀就の文書によれば、紫福村一五〇石の知行を宮本就政に命じている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報