日本歴史地名大系 「給部村」の解説 給部村きゆうぶむら 栃木県:芳賀郡芳賀町給部村[現在地名]芳賀町給部、塩谷郡高根沢(たかねざわ)町給部上稲毛田(かみいなげた)村の北に位置し、村内を大(おお)川が南流する。西は八ッ木(やつぎ)村。宇都宮城下と烏山(からすやま)城下を結ぶ烏山道、祖母井(うばがい)村と那須郡大和久(おおわぐ)村(現南那須町)方面を結ぶ道が交差する。慶安郷帳に村名がみえ、田七五石余・畑六五石余で幕府領。寛文九年(一六六九)の検地帳(綱川文太文書)では田一二町七反余・畑屋敷二九町一反余。延宝七年(一六七九)烏山藩領、天和二年(一六八二)下総関宿藩領、貞享年中(一六八四―八八)幕府領となり、元禄元年(一六八八)再び関宿藩領、同一一年より旗本大久保・長田・逸見の三給になったとされる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by