日本歴史地名大系 「綾織村」の解説 綾織村あやおりむら 岩手県:遠野市綾織村[現在地名]遠野市綾織町上綾織(あやおりちようかみあやおり)・綾織町下綾織(あやおりちようしもあやおり)東は崎(みさざき)村・釜石(かまいし)村・新里(につさと)村、南は山屋(やまや)村・奥友(おとも)村。新里村から北西方上宮守(かみみやもり)村(現上閉伊郡宮守村)に向かって遠野街道が通り、南西方向花巻に至る道が鱒沢(ますざわ)村(現同上)に向かう。ほぼ西流する猿(さる)ヶ石(いし)川沿いの下綾織と、南東流して同川に合流する山谷(やまや)川の流域を中心とする上綾織に分れる。「遠野物語拾遺」によると、六角牛(ろつこうし)山の女神の娘が蓮の糸で綾地の打敷を織って領主に献上したという伝説があり、地名の由来とする。この布は曼陀羅と称され当地の光明(こうみよう)寺に伝来するともいう。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが、このうち下六郷に綾織郷が含まれたと伝える(阿曾沼興廃記)。上綾織の谷内(たんない)権現堂の文安五年(一四四八)の棟札(「阿曾沼氏系譜」岩手県史)に「綾織村」孫次郎守儀造立のことがみえる。守儀は宇夫方氏で、のちに阿曾沼安綱の養子となった人物。宝徳二年(一四五〇)宇夫方氏は葛西氏の臣である金成政実に攻められたが、宮森氏・鱒沢氏らの救援により撃退した(「宇夫方家譜」遠野市立図書館蔵)。弘治三年(一五五七)葛西氏の支配下にある気仙勢が侵攻、宇夫方氏の拠る谷地(やち)館も落城し同氏は没落した(遠野市史)。慶長一七年(一六一二)綾織村の高一千三石余が上野右近に宛行われた(「南部利直知行宛行状」参考諸家系図)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by