日本歴史地名大系 「新里村」の解説
新里村
につさとむら
新里村
につさとむら
新里村
にさとむら
- 青森県:弘前市
- 新里村
建武四年(一三三七)七月日の曾我貞光申状案(遠野南部文書)に、同三年のこととして「同年七月 新里堀越両所被楯築之時 敵倉光孫三郎出張致合戦之時」とあり、堀越と同じく、曾我貞光が館を築き、北朝方の拠点の一つとなっていた。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「新里」とある。
新里村
あらだていむら
新里村
につさとむら
- 栃木県:宇都宮市
- 新里村
北は
近世を通じ宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一千五九三石余・畑方一千二二六石余とある。元禄九年(一六九六)徳次郎宿大助郷一八ヵ村の一つとなる(「徳次郎宿助郷帳」柿沼渉文書)。実質的には村は東西に分けられ、名主も別々にいた。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では、山家人足青草勤高は東新里村九八八石余・西新里村九九九石余、堰川除用水溜池往還人馬勤高は東新里村一千三三四石余・西新里村一千三三四石余、縄莚藁畳菰猫太大豆干葉納高は東新里村五二七石余・西新里村五五二石余。
新里村
にいさとむら
新里村
にいさとむら
新里村
にいさとむら
新里村
しんざとうむら
新里村
にいさとむら
- 岩手県:下閉伊郡
- 新里村
下閉伊郡の中央部に位置して、東から南に宮古市、西から南に
新里村
につさとむら
岩舟山の東麓、西は
新里村
につさとむら
- 埼玉県:草加市
- 新里村
田園簿では田一二九石余・畑三九石余で幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、幕末の改革組合取調書では江戸上野寛永寺領。「風土記稿」では元禄一五年(一七〇二)以降同寺領と記す。寛永六年(一六二九)検地が行われた(同書)。元禄八年検地が施行され、同一〇年検地帳(長堀家文書)が渡された。新田検地は寛延二年(一七四九)施行され、翌三年の検地帳(吉岡家文書)では田四町余・畑二町八反余・屋敷一反余、改増高は八二石余。
新里村
につさとむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報