新里村(読み)につさとむら

日本歴史地名大系 「新里村」の解説

新里村
につさとむら

[現在地名]山田町新里

仁良にら村の南、下総台地東部に位置し、東は鳩山はとやま村。慶長一五年(一六一〇)長岡ながおか浅間せんげん大明神(現稲葉山神社)本社建立の棟札に寄進村の一として村名がみえる。同一八年旗本妻木氏は当村のうち二一石余など合せて五〇〇石を与えられた(知行宛行状)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四九八石余、旗本妻木・鈴木・加藤・松波領の四給。


新里村
につさとむら

[現在地名]遠野市綾織町新里あやおりちようにつさと

横田よこた村の西に位置し、さるいし川が中央をほぼ西流する。同川沿いに遠野街道が通り、花巻に向かう道が分岐する。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、新里村の高三九一石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。元禄十郡郷帳による〆高は田方三五四石余・畑方二七一石余。「邦内郷村志」では高六二五石余、家数七四、馬八一。享和三年(一八〇三)の仮名付帳によると家数八二、うち枝村はみや四・寒風さむかぜ八・上代うわたい六・来迎らいこう一八・中宿なかしゆく一九・日影ひかげ一七・西風館ならいたて五・我丸わかまる五。


新里村
にさとむら

[現在地名]弘前市新里

ひら川西岸にあり、北はふく村、南は堀越ほりこし村の支村川合かわい村、西は高田たかだ村に接する。東は川を挟んで松館まつだて村・苗生松なんばいまつ村・館田たちた(現南津軽郡平賀町)と接する。

建武四年(一三三七)七月日の曾我貞光申状案(遠野南部文書)に、同三年のこととして「同年七月 新里堀越両所被楯築之時 敵倉光孫三郎出張致合戦之時」とあり、堀越と同じく、曾我貞光が館を築き、北朝方の拠点の一つとなっていた。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「新里」とある。


新里村
あらだていむら

[現在地名]上野村新里あらざと

宮国みやーぐん村の東に位置し、東は砂川うるか(現城辺町)。南は海に臨む。方音ではアラダティ。雍正旧記は城辺ぐすくなぎの内として宮古島蔵元(現平良市)より南南東にあり、二里三二町五〇間、宮国村より宿次二五町五八間、砂川村の西方で、村番所は村の真ん中に南西向きにあると記している。両島絵図帳に新里村とみえ、高四六一石余。正保国絵図では「荒里あらさと村」とする。もとは海岸沿いに形成されていたが、乾隆三六年(一七七一)三月のいわゆる明和大津波で壊滅的な被害を受けた。宮国・新里、砂川・友利とうむ(現城辺町)の四ヵ村ともに人家や屋敷囲いの石垣・樹木などがことごとく引き流され、「形も無之瀬原ニ相成」、家内数五九一が流失、百姓死人二千一五人と報じられている(「御問合書」伊佐家文書)


新里村
につさとむら

[現在地名]宇都宮市新里町

北は石那田いしなた村・徳次郎とくじら村、南は岩原いわはら村。三方を丘陵性の山地に囲まれた平坦な地域。弘治二年(一五五六)一一月一二日の壬生綱雄書状写(佐八文書)に新里郷とみえ、宇都宮に在城していた綱雄は、三年後に伊勢内宮に参宮するまで当郷の年貢二〇〇疋を進納すると御師の佐八太夫に約束している。

近世を通じ宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一千五九三石余・畑方一千二二六石余とある。元禄九年(一六九六)徳次郎宿大助郷一八ヵ村の一つとなる(「徳次郎宿助郷帳」柿沼渉文書)。実質的には村は東西に分けられ、名主も別々にいた。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では、山家人足青草勤高は東新里村九八八石余・西新里村九九九石余、堰川除用水溜池往還人馬勤高は東新里村一千三三四石余・西新里村一千三三四石余、縄莚藁畳菰猫太大豆干葉納高は東新里村五二七石余・西新里村五五二石余。


新里村
にいさとむら

[現在地名]神川町新里

金鑽かなさな村・萩平はぎだいら村の北東に位置し、東は保木野ほきの(現児玉町)、北は中新里村。地内の真言宗豊山派光明こうみよう寺には永仁三年(一二九五)八月一五日の年紀をもつ銅造阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)がある。背面に「武州児玉郡新里矢庭光明寺定 栄賢 幸賢」の刻銘があり、同年の造立とされる。室町時代、丹党の新里四郎光明が守護仏として信仰していたと伝えられ、現在は県立博物館に保管される。集落の南側には通称岡部おかべ屋敷とよばれる中世館跡があった。現在は旧状をまったく残していないが、東西約一六〇メートル・南北約一四〇メートルの規模であったと推定され、猪俣党岡部六弥太忠澄の居館と伝える。


新里村
にいさとむら

面積:三五・五六平方キロ

勢多郡のほぼ中央南部に位置し、北から東は黒保根くろほね村・山田郡大間々おおまま町、南は新田につた笠懸かさかけ村・佐波さわ赤堀あかぼり町、西は粕川かすかわ村。村域は赤城山南東端の傾斜地で南北に細長く、標高一五〇メートル前後から最高地点一四六六メートルに達する。ほぼ中央を鏑木かぶらき川が南流、南東部は大間々扇状地の一角を占める。南部を上毛電鉄が東西に走る。


新里村
にいさとむら

[現在地名]胆沢町若柳わかやなぎ 新里

柳田やなぎだ村の西に位置し、北は胆沢川を挟んで永徳寺えいとくじ(現金ヶ崎町)。天文一〇年(一五四一)三月一〇日、石川丹州は葛西高信から新里村五千刈などを与えられている(「高信知行宛行状」中尊寺文書)。寛永一八年(一六四一)の新里村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田方一一五町七反余・代一六二貫四二二文、畑方三四町六反余・代八貫八〇四文、名請人数一〇〇。正保郷帳では田方一六一貫二七四文・畑方八貫七九六文、ほかに新田高一貫一五六文。「安永風土記」では田一六八貫三八九文・畑九貫八四五文、うち蔵入三五貫四七二文・給所一四二貫七六二文。人頭一〇一(うち寺二)・代数有之百姓六・家数一〇六(うち水呑五)・人数六四三、馬一八〇。


新里村
しんざとうむら

[現在地名]佐敷町新里しんざと

佐敷さしち村の西に位置し、北東部は海に面する。下里ともみえる。尚思紹王の父である鮫川大主が村立てをしたと伝え、鮫川の居住した馬天ばていん嶽、その墓所や関連の佐銘川御嶽、網干しの場というアブシモーなどがある。もとは仲尾と称したが、尚巴志の頃に新里と改めたという。中心集落のウンジャバルより蔡温の施策で現在地に移ったとも伝える。絵図郷村帳に島添大里しましーうーざとう間切のうち下里村とみえる。琉球国高究帳でも同様で、高頭一八六石余のうち田一六五石余(うち永代荒地五石余)・畠二〇石余。


新里村
にいさとむら

面積:二五五・九六平方キロ

下閉伊郡の中央部に位置して、東から南に宮古市、西から南に川井かわい村、北は岩泉いわいずみ町に接する。村の南寄りを南西から北東に閉伊川が流れ、またほぼ中央を北から南東に支流刈屋かりや川が流れ、茂市もいちで閉伊川に合流する。農耕地はわずかに両川の流域に開かれているにすぎず、四方を高山で囲まれている。とくに北・西に高く、北の岩泉町境にはとうげかみ(一二二九・七メートル)さかいかみ(一三一九メートル)があり、西に害鷹がいたか(一三〇四・六メートル)猴舞さろうまい(一〇八八メートル)がある。国道三四〇号が中央部をほぼ南北に、一〇六号が南部の閉伊川沿いを東西に走り、これらと並行してJR岩泉線・山田線が走る。山林原野が村の九割を占め、古くは刈屋・腹帯はらたいの山中で砂金の産出をみた。


新里村
につさとむら

[現在地名]岩舟町新里

岩舟山の東麓、西は安蘇あそ古江ふるえ村、北は三谷みや村で、三杉みすぎ川左岸の平坦地に位置。古代東山道の三鴨みかも(延喜式)が置かれたとする説もある。中世には佐野庄に含まれた。応永一五年(一四〇八)二月九日の基高寄進状(相州古文書)に「さのゝしやうにいさとのこう」とみえ、新里郷の在家二軒が妙楽寺に寄進されている。永正七年(一五一〇)九月一〇日の又次郎檀那職売券案(米良文書)に「につさとの熊野堂」とみえる。安蘇郡に属し、慶安郷帳には新関村とみえ、田五四一石余・畑三五八石余・山七石余、下総古河藩領。改革組合村では幕府領と旗本佐野・堀田・矢橋・能勢の五給。旧高旧領取調帳では前出の旗本四氏と上野前橋藩領、旗本能勢の六給。


新里村
につさとむら

[現在地名]草加市新里町

彦右衛門ひこえもん新田の西にあり、西は南東流する毛長けなが川を隔てて舎人とねり村・古千谷こぢや(現東京都足立区)。同川左岸の自然堤防上と後背低湿地を占める。南西方の毛長沼は広さ一一町余で、舎人村・古千谷村との三ヵ村の入会の沼であったが、江戸後期には所々開墾され水田化した。足立郡谷古田やこだ領に属した(風土記稿)

田園簿では田一二九石余・畑三九石余で幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、幕末の改革組合取調書では江戸上野寛永寺領。「風土記稿」では元禄一五年(一七〇二)以降同寺領と記す。寛永六年(一六二九)検地が行われた(同書)。元禄八年検地が施行され、同一〇年検地帳(長堀家文書)が渡された。新田検地は寛延二年(一七四九)施行され、翌三年の検地帳(吉岡家文書)では田四町余・畑二町八反余・屋敷一反余、改増高は八二石余。


新里村
につさとむら

[現在地名]明和村新里

中谷なかや村の東に位置する。永正二年(一五〇五)八月二一日の旦那願文写(熊野那智大社文書)によると佐貫さぬき庄の新里雅楽助・同名太郎左衛門らが紀州熊野那智山に参詣している。両人は新里の住人であろう。寛文元年(一六六一)の領内一村一人宛出頭方申渡(大島文書)に村名がみえ、館林藩領。寛文郷帳によると田方三二六石余・畑方一八四石余。弘化三年(一八四六)の国役金掛高帳(「明和村誌」所収)によると利根川国役普請役を課せられていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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