美里間切(読み)んざとうまぎり

日本歴史地名大系 「美里間切」の解説

美里間切
んざとうまぎり

沖縄島中部東側、現沖縄市東半と石川市にまたがる。中頭方に属する。東は具志川ぐしちやー間切(現具志川市)、南は中城なかぐしく間切、西は越来ぐいーく間切、北は恩納うんな間切・金武ちん間切。ンザトゥとよばれる。里積記によれば首里から東恩納ひじやうんな(現石川市)の間切番所までの距離は六里三合九勺六才(六里一四町余)。ほぼ中央を宿道(東海道)南北に走り、それぞれ越来間切と金武間切に連結していた。なお東恩納村は国頭方面との宿次ルートの要衝に位置付けられ、西原にしばる(美里村)のほかに東恩納村にも間切番所が置かれていたが、財政負担が過重なため同番所は乾隆八年(一七四三)に廃された(南島風土記)

康熙五年(一六六六)四月二三日、当時二〇余ヵ村で構成されていた越来間切から一五ヵ村を割いて美里間切として分離・独立した(「文姓江冽家家譜」三世嵩原親方孝治条・「球陽」尚質王一九年条)。その際絵図郷村帳にみえる赤崎あかさち村は廃されたという(南島風土記)。その後越来・美里両間切の境界の見直しが行われ、康熙一一年に越来間切から嘉手苅かでいかる山城やまぐすく伊波いふあ石川いしちやー渡口とうぐち(現石川市)の五ヵ村が美里間切に移され、逆に美里間切から照屋ていーら村が越来間切に編入された(「球陽」尚貞王四年条)。また蔡温期の集落移動のためか登川ぬぶんじやー村が乾隆四年に(登川碑文)、また渡口村が同三二年にそれぞれ現在地へと移っている(「球陽」尚穆王一六年条)。間切分割後、大村渠うふんだかり満喜世まんじゆ・渡口・古謝くじやー桃原とーばるの五村を新設し、その後大村渠・満喜世二村を廃して松本まちむとう村を置き、渡口を石川に合したとする説があるが(南島風土記)、定かではない。なお「美里村史」によれば、乾隆三一年に渡口村は石川村に吸収合併されたという。新設の間切のため江戸幕府官撰の正保国絵図をはじめ国絵図・郷帳等には間切名はみえず、一貫して越来間切内として把握されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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