肥後町
ひごちよう
外堀の内側で、毛利橋通の町々と土橋町との間に形成された東西に長い町。
「豊公伏見城ノ図」によれば、城下町時代は南部に武家屋敷があり、そのほかはほぼ町家地であった。南部の武家屋敷は、西側が丹羽五郎左衛門、東側が戸田左馬頭と記されている。肥後町を東西に貫通する道路は、濠川から紺屋町までの短い通りにすぎないが、この東西路と南北に直角に交差しているのが、竹田街道からまっすぐ南下してきて土橋を越えてくる通りで、これも毛利橋通で突当りとなる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 