( 1 )「こん(紺)」の撥音のウ音便化には、他にも「こうかき(紺掻)」「こうぞめ(紺染)」「こういとおどし(紺糸威)」などがあり、いずれも中世からみられる。
( 2 )日本各地に「紺屋(こんや)町」という地名が散見するが、「こうやちょう」「こうやまち」とするものは西日本方面に多い。
紺掻(こんかき)屋が略されたという。紺掻きは紺染め(藍(あい)染め)を専業とする職人で、13世紀の中世初期の誕生である。「こんや」ともいう。掻くとは、藍を藍甕(あいがめ)に溶かして底に沈まないように掻き回して染めることをいう。17世紀の近世では、いろいろな染色職人をさすこともあったが、多く植物染料別に分化していた。紺屋は初めはヤマアイ、のちにはタデアイを使った。衣料などの織物は近世でも自家生産であったが、その材料の布や糸の染色は紺屋などの専業者に頼んでいた。町では職人町として集住し、村でも何軒かが定住し、いずれも居職(いじょく)で注文に応じていた。中世ではヤマアイの栽培、藍建て(染料生産)、藍染めの3工程をしていたが、近世では藍建て、藍染めの2工程となり、染料のタデアイの葉からつくった蒅(すくも)、玉藍の生産者の藍師(藍屋)が生まれ、そこから供給された。藍甕は、近世では四つ並べて土中に埋め、火壺(ひつぼ)で加温して藍の発酵を早めるようになった。しかし、農村などの自家生産では全工程が行われ、気温による自然発酵に頼る所もある。染色の仕事は、一般に家族労働によることが多く、伝統的に女性が主体となっていた。近代になってからは、ほかの染色や洗い張りも行い、悉皆(しっかい)屋・染物屋のことともなった。また、現代では鉱物質染料も使われ、本来の紺屋の仕事は圧迫されるようになった。なお、染めの基本としては、浸し染め、型染め、引き染めの三つがあった。
[遠藤元男]
〈こんや〉ともいう。現在では染物一般を行う染物屋をさすが,本来は紺搔(こんかき)屋の略された語といわれ,紺染(藍染)を専業とする者の称であった。紺搔の名は,藍瓶に溶かした藍が底に沈殿しないように搔きまわして染めたことに由来する。職人としての紺搔の誕生は中世初期にさかのぼるが,近世になって紅師,紫師,あるいは茶染師といった職人もあらわれた。こうした紺搔以外の染物職人は中世末期には染殿(そめどの)と呼ばれていたが,やがて染物業者のすべてを紺屋とも呼ぶようになった。染料は植物性のもので,原料植物によってその処理や染色のしかたにちがいがあったため,職人の分化が起こったものと思われる。紅師は紅花(べにばな),紫師は紫草(むらさき),茶染師は黄櫨(はぜ)や檳榔子(びんろうじ),紺屋は初めは山藍,のちには蓼藍(たであい)を使った。中世の紺搔は山藍の栽培から染色までのすべての工程を一貫して行っていたが,近世には蓼藍の葉から染料としての蒅(すくも),あるいは藍玉を生産する藍師(藍屋)ができ,紺屋はそこから藍玉を仕入れて染色を行うようになった。都市では業者が集住して紺屋町を形成したところが多く,村落にも紺屋の定住が多く見られた。労働は伝統的に女性中心に行われ,中世から近世初期の風俗画にそのようすが描かれている。
→アイ(藍) →紺
執筆者:遠藤 元男
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「こんや」とも。紺掻(こんかき)とも。藍で布を染める職人。室町時代以降に専門職に分化した。木綿が普及する江戸時代以降,衣料を自家調達してきた農家も染めまではできないため,村々にも紺屋が成立した。藍の栽培から一貫して行ったが,近世には染料を作る藍建て,藍染だけになった。近代には藍以外の染色や洗い張りも行い,染物屋と同義となる。甕場(かめば)へは女性をいれない風習があったが,江戸時代には女性が盛んに藍染を行った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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