日本歴史地名大系 「脇御崎村」の解説 脇御崎村わきみさきむら 長崎県:西彼杵郡野母崎町脇御崎村[現在地名]野母崎町脇岬(わきみさき)野母(のも)村の東に位置し、天草(あまくさ)灘に小半島が突き出す。北に遠見(とおみ)山があり、南に樺(かば)島がある。地内の観音寺は古代の創建を伝え、御崎(みさき)道は観音信仰の参拝路でもあった。江戸時代は肥前佐賀藩家老の深堀鍋島家領で、高来(たかく)郡のうち深堀(ふかほり)郷に属する。村名は脇津(わきのつ)と御崎(岬)を合せたもので脇御崎村が公称であるが、江戸時代を通じて脇津・御崎ともに用いられる。慶長国絵図に「深堀ノ内 和木村」「深堀ノ内 三崎村」と記される。正保二年(一六四五)川原(かわら)村(現三和町)・野母村などと「御崎村」との境目が定められた(「御書其外書抜」菩提寺文書)。同年の高来郡内高力氏領分図に「和岐村」とあり、鍋島領とある。正保国絵図には脇御崎村とみえ、佐賀藩深堀領鍋島茂里領で高九八石余、脇御崎浦は小船の係留によく、大小五、六〇艘ほどをつなぐことができるという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報