船越郷
ふなごしごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「不那古志とよむべし」と記す。郷名は船をいったん陸揚げし、運搬して越えたことに由来するのであろう。「肥前国風土記」養父郡曰理郷条に、景行天皇が巡行の際、生葉山を船山(造船の材を伐採する山)、高羅山(高良山)を梶山(梶を造る材を伐採する山)としたとあるから、おそらく生葉郡との郡境に近い場所で、付近を流れる筑後川と巨瀬川が接近していて船の陸送に便利な地があったのであろう。
船越郷
ふなこしごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「舩越」と記し訓を欠く。天平神護二年(七六六)一〇月二〇日の平城宮出土木簡に「志摩国英虞郡船越郷」、年次不明のものに「志麻国英虞郡舩越郷」とみえる。船越の名は現志摩郡大王町と現度会郡南勢町とにある。大王町の船越は名錐郷の郷域であったと考えられ、この船越郷は南勢町船越を中心とする地にあてられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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