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志摩国 しまのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

志摩国
しまのくに

現在の三重県志摩市東海道の一国。下国。『旧事本紀』には島津国とあり,国造が置かれたという。『古事記』に「嶋の速贄 (はやにへ) 」,『万葉集』に「御食 (みけ) つ国志麻」とあり,古代における海産物を主とした食料品供給の要地であったことを示す。そのため内膳司 (天皇の食料を調達する役所) の長官である奉膳 (ぶぜん) の高橋氏が国守に任じられるのが例であった。養老2 (718) 年4月3日の『平城宮出土木簡文書』に志摩郡とあるが,ほかに記録がないので詳細は明らかでない。『続日本紀』には答志 (たふし) 郡とあり,同3年には佐芸郡が分割されている。国府,国分寺ともに志摩市阿児町に置かれた。『延喜式』には答志,英虞 (あこ) の2郡があり,『和名抄』には郷 14,田 124町を載せている。水田が狭小であったため,口分田 (くぶんでん) ,公廨料 (くがいりょう) など,伊勢,尾張の諸国によっていた。伊勢神宮に近く,その別宮である伊雑宮 (いざわのみや) が鎮座し,神宮の封戸が 66戸置かれ,御厨 (みくりや) も定められ,神宮の神饌 (しんせん) を供進するなど神宮の勢力が強かった。したがって鎌倉時代には有力な武家の台頭はみられなかったが,室町時代には伊勢の北畠氏が支配し,安土桃山時代にいたり九鬼嘉隆が波切 (なきり) ,鳥羽によって水軍として名を知られ,伊勢,志摩両国で3万石を領した。江戸時代初期には引き続き九鬼氏が支配したが,のち内藤氏,土井氏,松平氏,稲垣氏が領し,鳥羽藩として幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県で,7月に鳥羽県となり,11月に度会 (わたらい) 県に併合され,さらに 1876年,三重県となった。

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デジタル大辞泉の解説

しま‐の‐くに【志摩国】

志摩

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百科事典マイペディアの解説

志摩国【しまのくに】

旧国名。志州とも。東海道の一国。現在の三重県東部,志摩半島。古くから伊勢神宮の勢力下にあり,《延喜式》に下国,2郡。中世には北畠氏,次いで九鬼氏が支配,近世は内藤・稲垣氏らの鳥羽藩。
→関連項目近畿地方熊野街道鳥羽藩三重[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

しまのくに【志摩国】

現在の三重県 志摩半島を中心とする地域を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の志摩市におかれていた。古くから海産物に富み、贄(にえ)として天皇に貢進した。伊勢神宮領が多く、その管理権をもつ武士の力が強かった。中世には九鬼(くき)氏など海を舞台に活躍する豪族が勢力をはった。1601年(慶長(けいちょう)6)に鳥羽(とば)藩が成立、譜代(ふだい)藩として幕末に至った。1871年(明治4)の廃藩置県により鳥羽県となったが、度会(わたらい)県を経て1876年(明治9)に三重県に編入された。◇志州(ししゅう)ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

しまのくに【志摩国】

旧国名。志州。基本的には現在の三重県鳥羽市と志摩郡がある志摩半島,および周辺島嶼からなり,一部は西南の渡会(わたらい)郡と北牟婁(きたむろ)郡におよんでいた。しかし国境はしばしば変動している。
【古代】
 東海道に属する下国(《延喜式》)。《日本書紀》持統紀に〈志摩国造〉がある。国府は現阿児町に推定される。東海道の支路伊勢国渡会駅から鴨部駅(鳥羽市船津町)と磯部駅(志摩郡磯部町沓掛)を経て国府に至る。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

志摩国
しまのくに

三重県中東部の旧国名。志摩半島の南半部を占める。伊勢(いせ)国の南東にあり、多くの島を擁する。志摩半島は太平洋に臨み、渥美(あつみ)半島と相対し伊勢の海の入口を扼(やく)する。志摩市の阿津里(あづり)貝塚はじめ各地に縄文式土器・石器が発見されており、さらに弥生(やよい)時代遺跡もみられる。答志島(とうしじま)、神島(かみじま)、菅島(すがしま)(以上鳥羽(とば)市)などの離島には古い民俗が多く残存し、民俗学の分野においても注目されている。また志摩市の阿児(あご)、大王(だいおう)、浜島各町には古墳が営まれ、とくに志島(しじま)古墳群(志摩市阿児町志島)、目戸山(めどやま)古墳(志摩市浜島町浜島)は有名。『古事記』には島(しま)の速贄(はやにえ)とか島津国(しまつくに)(島は志摩、津は助辞)とあり、古く志摩国造(くにのみやつこ)が置かれ、志摩市阿児町に国府(こう)の地名が残っている。『延喜式(えんぎしき)』には東海道の一国で近国に属し、初め塔志(とうし)郡の一郡であったが、奈良時代には佐芸(さき)郡を分置、平安時代以降、答志・英虞(あご)の2郡となるとある。当国は低い山々が連なり、耕地狭く穀物は他国に比べきわめて少ないが、海産物は豊富で『延喜主計式』の調(ちょう)には、鰒(あわび)、堅魚(かつお)、熬海鼠(いりこ)、雑魚(ざこ)、紫菜(のり)、海松(みる)、鹿角菜(ふのり)、海藻(め)、海藻根(まなかし)、角俣菜(つのまたのり)、於期菜(おごのり)、滑海藻(あらめ)など、庸(よう)には、鰒、堅魚、鯛(たい)の楚割(すわやり)(細かく割(さ)いた干物)を積み出すことになっていた。国分寺の遺跡は志摩市阿児町国府にあり、当時の瓦(かわら)の破片などが保管されている。当国は伊勢神宮との関係深く答志郡(現志摩市磯部(いそべ)町)に伊勢内宮(ないくう)の別宮で志摩国一宮(いちのみや)であった伊雑宮(いざわのみや)があり、神宮の封戸(ふこ)66戸が置かれ、御厨(みくりや)も定められた。神饌(しんせん)として小浜より鯛、的矢(まとや)より鱸(すずき)を内宮に、立神より牡蠣(かき)を外宮(げくう)に献ずることは明治まで継続され、鰒はいまなお国崎(くざき)で調進され三節祭に供える。当国は港湾が発達しており、中世には答志浦、国崎、的矢などが著名。戦国末期、九鬼嘉隆(くきよしたか)が志摩国一円を手中に収め、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では鳥羽水軍の名を高めた。江戸時代には鳥羽藩領で、九鬼氏のあと内藤、土井、松平(大給(おぎゅう))、板倉、松平(戸田)、稲垣の各大名が在封した。幕末、黒船来航の際、鳥羽藩は菅島、坂手島(さかてじま)などの島や的矢浦などの海岸線に砲台を築いて防備に努めた。1871年(明治4)鳥羽県となり、度会(わたらい)県を経て76年三重県に編入、志摩一郡となる。現在は鳥羽市と志摩市よりなる。[原田好雄]
『『磯部郷土史』(1963・同書刊行会) ▽和歌森太郎編『志摩の民俗』(1965・吉川弘文館) ▽中岡志州著『志摩国郷土史』(1970・中岡書店) ▽荻原秀三郎著『神島』(1973・井場書店)』

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