梶山(読み)かじやま

日本歴史地名大系 「梶山」の解説

梶山
かじやま

室町時代からみえ地名。加治山とも記される。「三国名勝図会」に「石寺は、梶山闔土の村名なり」と記され、中世の梶山は江戸時代の石寺いしでら村、現在の三股町長田ながた付近に比定される。長田城内じようないには梶山城跡があり、空堀などの遺構が残る。享禄三年(一五三〇)頃には、梶山城は山之口やまのくち(現山之口町)たか(現高城町)勝岡かつおか城などとともに伊東氏が確保した庄内三俣しようないみまたの八外城の一つとされていた(年未詳「先代日向一国時支配覚」予章館文書、年未詳「北郷家家譜写」北郷文書)

文明年間(一四六九―八七)に島津氏家臣の山田聖栄が編んだ「山田聖栄自記」には、明徳五年(一三九四)二月に北朝方の今川貞兼が「庄内梶山」を攻撃したことが記される。梶山は和田・高木氏が関与する所領とみられるが、応永元年(一三九四)以前には伊東氏が梶山を領していた。同年九州探題今川了俊方の国人一揆が和田・高木氏の守る梶山城を攻撃した際、北郷氏は和田・高木方につき、二月一七日に北郷久秀・忠通兄弟が梶山城合戦で戦死し、兄弟の位牌は梶山の大昌寺にあったという(前掲北郷家家譜写、年未詳「北郷家法名覚書写」都城島津家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報