日本歴史地名大系 「梶山」の解説
梶山
かじやま
室町時代からみえる地名。加治山とも記される。「三国名勝図会」に「石寺は、梶山闔土の村名なり」と記され、中世の梶山は江戸時代の
文明年間(一四六九―八七)に島津氏家臣の山田聖栄が編んだ「山田聖栄自記」には、明徳五年(一三九四)二月に北朝方の今川貞兼が「庄内梶山」を攻撃したことが記される。梶山は和田・高木氏が関与する所領とみられるが、応永元年(一三九四)以前には伊東氏が梶山を領していた。同年九州探題今川了俊方の国人一揆が和田・高木氏の守る梶山城を攻撃した際、北郷氏は和田・高木方につき、二月一七日に北郷久秀・忠通兄弟が梶山城合戦で戦死し、兄弟の位牌は梶山の大昌寺にあったという(前掲北郷家家譜写、年未詳「北郷家法名覚書写」都城島津家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報