若江郡
わかえぐん
「和名抄」にみえ、訓は高山寺本に「ワカエ」、東急本国郡部に「和加江」とある。当郡は長瀬川(旧大和川本流)と玉串川および深野池・新開池(宝永元年の大和川付替え後、干拓により姿を消す)に囲まれ、南を頂点とする三角形の地域で、玉串川の東には河内・高安二郡、長瀬川の西には摂津国東生(東成)郡と河内国の渋川・志紀二郡があり、北は深野池・新開池を隔てて茨田郡・讃良郡に対する。現在の行政区画では、北部が東大阪市、南部が八尾市に属する。当郡の境域で問題になるのは、「延喜式」神名帳の若江郡の項に渋川神社がみえることと、建永二年(一二〇七)七月八日の僧深慶某寺領注進状(正木直彦氏所蔵文書)に「河内国末寺久宝寺若江郡狛郷」とあることとである。前者の史料は、かつて若江郡の一部が渋川郡に属していたことを示すかとも思われるが、そうではなく、長瀬川が古代には渋川とよばれ、渋川の神を祀る社が若江郡の側にあったと解すべきであろう。後者の史料は、長瀬川左岸にあり、近世以降渋川郡の地であった久宝寺の所在地(現八尾市)が、中世には若江郡狛郷(「和名抄」巨麻郷)に属したことを示す。しかし文明二年(一四七〇)蓮如が久宝寺所在の慈願寺に与えた「親鸞上人絵伝」裏書に「河内国渋河郡橘島久宝寺」とあり、これ以後久宝寺を若江郡とするものはない。おそらく若江・渋川両郡の郡界は基本的には古代―近世を通じて長瀬川で、中世にしばらく渋川郡の一部(久宝寺付近)が若江郡に編入されていた時期があったのであろう。そのほか近世、渋川郡植松村(現八尾市)の村域は、大和川付替え以前長瀬川の両岸にわたっていた。このように郡界の変動は若干あったと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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