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大和(やまと)国家、飛鳥(あすか)時代の大臣。蘇我臣稲目(おみいなめ)の子。毛人(えみし)(蝦夷)の父。馬古、汗麻古、有明子とも記され、嶋大臣(しまのおおおみ)と称された。敏達(びだつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)・推古(すいこ)朝の大臣で、父稲目の達成を受け継ぎ推し進めて蘇我氏の繁栄の頂点にたった。娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を聖徳太子の妃に、法提(ほて)郎女を舒明(じょめい)天皇の夫人にたてた。大臣として最初の手腕を発揮したのは、高句麗(こうくり)外交の開始である。すなわち、570年(欽明天皇31)に北陸に来着した高句麗使を、572年(敏達天皇1)に朝廷に迎え、高句麗外交を始めた。しかし、これには大連物部守屋(おおむらじもののべのもりや)ら百済(くだら)外交のみに固執する勢力の反対が強く、これにかねてからの仏教受容問題や皇位継承問題も加わって、ついに587年(用明天皇2)、馬子は物部・中臣(なかとみ)氏らを討滅した。この年に没した用明天皇も、次の崇峻天皇も、馬子が擁立した蘇我系天皇であったが、崇峻天皇と意見が対立し始めると、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じてこれを暗殺させた。
このあと馬子は、592年(崇峻天皇5)から着工した飛鳥寺(法興寺)の造営を進めて完成させ、仏教興隆の方針を進めた。605年(推古天皇13)から厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の上宮王家が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも、馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間、新羅(しらぎ)遠征軍の派遣計画は失敗したが、二度にわたる遣隋(けんずい)使の派遣もあり、外交の必要からも難波(なにわ)津を重視した。晩年には、厩戸皇子と諮って『天皇記』『国記』、諸氏の本記を編纂(へんさん)させた。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は、いわゆる石舞台古墳であるとされている。
[門脇禎二]
飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた。就任の当初から大連(おおむらじ)物部守屋らの勢力と対立したが,その反対をおしきって,570年(欽明31)に北陸に来着した高句麗使を572年(敏達1)に朝廷に迎え入れ,高句麗外交を開始した。これに仏教受容や皇位継承の問題も加わって,反対派との対立はその後ますます深まり,587年,用明天皇の死後に軍を起こした馬子は,物部守屋を討滅した。このあとに崇峻天皇をたてたが,天皇と意見が対立しはじめると,馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて592年(崇峻5)にこれを暗殺させた。そして,この年から着工していた飛鳥寺(法興寺)は,推古朝に入っても造営をつづけ,日本最初の本格的寺院として完成させた。以後も仏教興隆の方針をすすめ,605年(推古13)から厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも,馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間,新羅遠征軍の派遣計画は失敗したが,遣隋使の派遣もあり,外交の必要上からも難波津を整備した。晩年には,厩戸皇子とはかって天皇記,国記,諸氏の本記を編纂させた。厩戸皇子妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ),舒明天皇妃の法提郎女(ほてのいらつめ)は,馬子の娘である。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は,いわゆる石舞台古墳であるとみられている。
執筆者:門脇 禎二
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(仁藤敦史)
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?~626.5.20
島大臣(おおおみ)とも。6世紀後半~7世紀前半の大臣。稲目(いなめ)の子で,蝦夷(えみし)の父。敏達元年,大臣に任じられ,以後用明・崇峻・推古朝と終生大臣を勤めた。飛鳥の大野丘の北に塔を建てるなど崇仏に努め,廃仏派の物部守屋との対立を激化させ,用明没後,穴穂部皇子と守屋を攻め滅ぼした。崇峻5年,東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺させ,推古天皇を擁立し,厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)を皇太子とした。596年(推古4)法興寺を完成させ,620年太子とともに「天皇記」「国記」などの史書を撰録し,623年新羅(しらぎ)に出兵した。624年,天皇に葛城県(かずらきのあがた)を請うたが許されなかった。626年,没して桃原墓に葬られた。
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…なお,古墳築造の際,小古墳群が破壊されている。626年に死んだ蘇我馬子の桃原墓にあてる説があるが,蓋然性が高い。【猪熊 兼勝】。…
…従来,豪族たちは大和朝廷において氏ごとに一定の職務を世襲し,その政治的特権の表象として特定の冠を襲用してきたが,これは,それとは別に個人を対象とし,昇進の原則をもつ新しい冠位制度であった。制定者は推古朝の皇太子聖徳太子と考えてよいが,時の大臣蘇我馬子の関与も十分考えられる。冠名は徳を初めに置き,以下に仁・礼・信・義・智の五常の徳目をとり,おのおのを大・小に分けて12階とし,各階に相当の色を定めたが,その具体的な内容は不明。…
…聖徳太子が蘇我馬子とともに編集したという歴史書。《日本書紀》の推古28年(620)条に〈天皇記及国記,臣・連・伴造・国造・百八十部幷公民等本記を録す〉とある。…
…嶋宮の池には,中島があり,荒磯も造られ,石(いわ)ツツジなども植え込まれていた。この嶋宮は,蘇我馬子が飛鳥川の辺に営んだ家に由来する。馬子の死去を記す推古紀34年(626)5月条によれば,馬子の家の庭中には,小池が掘られ,池中には島が起こされていて,その様は嶋宮に酷似している。…
※「蘇我馬子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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