蘇我馬子(読み)ソガノウマコ

デジタル大辞泉 「蘇我馬子」の意味・読み・例文・類語

そが‐の‐うまこ【蘇我馬子】

[?~626]飛鳥時代の豪族。稲目の子。排仏派の物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺して実権を握った。日本最初の史書といわれる「天皇記」「国記」を撰録。

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精選版 日本国語大辞典 「蘇我馬子」の意味・読み・例文・類語

そが‐の‐うまこ【蘇我馬子】

  1. 蘇我稲目の子。父についで敏達・用明・崇峻・推古四朝の大臣となり、姻戚関係と仏教を利用して政敵物部氏を滅ぼし、さらにみずからたてた崇峻天皇を殺すなど専横をきわめた。聖徳太子摂政時代は太子に協力して、日本最初の国史といわれる「天皇記」「国記」などの撰録を行なった。推古天皇三四年(六二六)没。

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百科事典マイペディア 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子【そがのうまこ】

蘇我稲目(いなめ)の子。稲目に次いで大臣(おおおみ)となり,587年聖徳太子とともに排仏派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼした。以後勢力を振るい,592年には崇峻(すしゅん)天皇を暗殺。推古天皇の時は摂政聖徳太子と協調したが,太子の死後また権力を握った。
→関連項目飛鳥寺穴穂部皇子石舞台古墳大臣先代旧事本紀蘇我氏蘇我赤兄蘇我石川麻呂蘇我蝦夷天皇記山背大兄王用明天皇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子
そがのうまこ
(?―626)

大和(やまと)国家、飛鳥(あすか)時代の大臣。蘇我臣稲目(おみいなめ)の子。毛人(えみし)(蝦夷)の父。馬古、汗麻古、有明子とも記され、嶋大臣(しまのおおおみ)と称された。敏達(びだつ)・用明(ようめい)・崇峻(すしゅん)・推古(すいこ)朝の大臣で、父稲目の達成を受け継ぎ推し進めて蘇我氏の繁栄の頂点にたった。娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を聖徳太子の妃に、法提(ほて)郎女を舒明(じょめい)天皇の夫人にたてた。大臣として最初の手腕を発揮したのは、高句麗(こうくり)外交の開始である。すなわち、570年(欽明天皇31)に北陸に来着した高句麗使を、572年(敏達天皇1)に朝廷に迎え、高句麗外交を始めた。しかし、これには大連物部守屋(おおむらじもののべのもりや)ら百済(くだら)外交のみに固執する勢力の反対が強く、これにかねてからの仏教受容問題や皇位継承問題も加わって、ついに587年(用明天皇2)、馬子は物部・中臣(なかとみ)氏らを討滅した。この年に没した用明天皇も、次の崇峻天皇も、馬子が擁立した蘇我系天皇であったが、崇峻天皇と意見が対立し始めると、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じてこれを暗殺させた。

 このあと馬子は、592年(崇峻天皇5)から着工した飛鳥寺(法興寺)の造営を進めて完成させ、仏教興隆の方針を進めた。605年(推古天皇13)から厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の上宮王家が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも、馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間、新羅(しらぎ)遠征軍の派遣計画は失敗したが、二度にわたる遣隋(けんずい)使の派遣もあり、外交の必要からも難波(なにわ)津を重視した。晩年には、厩戸皇子と諮って『天皇記』『国記』、諸氏の本記を編纂(へんさん)させた。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は、いわゆる石舞台古墳であるとされている。

[門脇禎二]

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改訂新版 世界大百科事典 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子 (そがのうまこ)
生没年:?-626(推古34)

飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,汙麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた。就任の当初から大連(おおむらじ)物部守屋らの勢力と対立したが,その反対をおしきって,570年(欽明31)に北陸に来着した高句麗使を572年(敏達1)に朝廷に迎え入れ,高句麗外交を開始した。これに仏教受容や皇位継承の問題も加わって,反対派との対立はその後ますます深まり,587年,用明天皇の死後に軍を起こした馬子は,物部守屋を討滅した。このあとに崇峻天皇をたてたが,天皇と意見が対立しはじめると,馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて592年(崇峻5)にこれを暗殺させた。そして,この年から着工していた飛鳥寺(法興寺)は,推古朝に入っても造営をつづけ,日本最初の本格的寺院として完成させた。以後も仏教興隆の方針をすすめ,605年(推古13)から厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも,馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間,新羅遠征軍の派遣計画は失敗したが,遣隋使の派遣もあり,外交の必要上からも難波津を整備した。晩年には,厩戸皇子とはかって天皇記,国記,諸氏の本記を編纂させた。厩戸皇子妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ),舒明天皇妃の法提郎女(ほてのいらつめ)は,馬子の娘である。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は,いわゆる石舞台古墳であるとみられている。
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朝日日本歴史人物事典 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子

没年:推古34.5.20(626.6.19)
生年:生年不詳
敏達・用明・崇峻・推古朝の大臣。馬古,汗麻古,有明子とも書く。稲目の子。蝦夷,善徳,河上娘,刀自古郎女,法提郎女らの父。敏達1(572)年,天皇即位に伴い大臣に任命され,同3年には白猪屯倉(岡山県落合町)の戸籍整備に努力した。用明朝には物部守屋が穴穂部皇子を擁立しようとするのに対抗して,豊御食炊屋姫(のちの推古天皇)を奉じ,穴穂部皇子を殺させた。さらに,用明の没後には物部氏と戦い,河内国の渋川の家(八尾市)で守屋ら物部一族を滅ぼし,崇峻天皇をたてて独裁的な権力を握った。崇峻5(592)年には天皇が馬子を嫌っているのを知り,東漢直駒に命じて暗殺させた。その後,豊御食炊屋姫を擁立し推古天皇として即位させ,自身は引き続き大臣となり,「天皇記」「国記」の編纂を議するなど,厩戸皇子(聖徳太子)と共に共同執政を行った。この間,娘の刀自古郎女を厩戸皇子の,法提郎女を田村皇子(のちの舒明天皇)のそれぞれ妃とし,王族との血縁関係を強化した。推古31(623)年には新羅征討軍の派遣を強行したところ,新羅貢調使の来日と行き違いとなり出兵を後悔したという。翌年,天皇に葛城県は自身の本拠であるから賜って封県としたいと願ったが許されなかった。武略と弁才を有し,三宝を恭敬したといい,飛鳥川の傍らの家では,庭中に小島を設けたので,時の人は嶋の大臣と称したという。仏教の受容にも熱心で,敏達13年には百済からもたらされた石仏像を請い,宅の東に仏殿を建てて安置し,高句麗僧恵便を師として善信尼など3人の女性を出家させた。翌年には大野丘の北に塔を建て仏舎利を収めたという。崇峻朝には善信尼を百済に派遣して戒律を学ばせる一方,飛鳥衣縫造の祖の家を壊して法興寺(飛鳥寺)の造営に着手,僧侶を止住させたり,仏像を造らせるなどして推古朝に完成させた。病に際しては,男女1000人を出家させたとも伝える。桃原墓に埋葬されたとあり,奈良県明日香村島之庄にある石舞台古墳に比定される。

(仁藤敦史)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蘇我馬子」の意味・わかりやすい解説

蘇我馬子
そがのうまこ

[生]?
[没]推古34(626).5.20. 大和
古代の中央豪族。稲目の子。蝦夷 (えみし) の父。敏達天皇のとき大臣となり,大連 (おおむらじ) 物部守屋と朝政をとった。崇仏の可否をめぐって守屋らと対立し,諸皇子,諸臣を味方に引入れて,用明2 (587) 年排仏派を殺し,朝廷における地位を確立した。その後,自身の擁立した崇峻天皇を殺して推古天皇を立て,聖徳太子とともに朝政をとった。推古4 (596) 年法興寺を建立して子の徳善を寺司とした。また太子とともに『天皇記』『国記』などを録した。家が飛鳥川のほとりにあり庭中の小池に小島があったことから島大臣 (しまのおおおみ) ともいわれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子
そがのうまこ

?~626.5.20

島大臣(おおおみ)とも。6世紀後半~7世紀前半の大臣。稲目(いなめ)の子で,蝦夷(えみし)の父。敏達元年,大臣に任じられ,以後用明・崇峻・推古朝と終生大臣を勤めた。飛鳥の大野丘の北に塔を建てるなど崇仏に努め,廃仏派の物部守屋との対立を激化させ,用明没後,穴穂部皇子と守屋を攻め滅ぼした。崇峻5年,東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を殺させ,推古天皇を擁立し,厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)を皇太子とした。596年(推古4)法興寺を完成させ,620年太子とともに「天皇記」「国記」などの史書を撰録し,623年新羅(しらぎ)に出兵した。624年,天皇に葛城県(かずらきのあがた)を請うたが許されなかった。626年,没して桃原墓に葬られた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子 そがの-うまこ

?-626 6-7世紀前半の豪族。
蘇我稲目の子。敏達(びだつ)天皇のときに大臣(おおおみ)となる。仏教興隆をはかり,用明天皇2年(587)反対派の物部守屋(もののべの-もりや)と穴穂部(あなほべの)皇子をほろぼし,崇峻(すしゅん)天皇をたてる。崇峻天皇5年(592)東漢駒(やまとのあやの-こま)に崇峻天皇を暗殺させ,姪(めい)にあたる推古天皇を即位させ,厩戸(うまやどの)皇子(聖徳太子)を皇太子とした。法興寺(飛鳥(あすか)寺)を造営。聖徳太子と協調して政治をおこない,「天皇記」「国記」を編修させた。推古天皇34年5月20日死去。墓所は奈良県明日香村の桃原墓。通称は嶋(島)大臣。

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旺文社日本史事典 三訂版 「蘇我馬子」の解説

蘇我馬子
そがのうまこ

?〜626
6〜7世紀前期の大和政権の大臣
稲目の子。父のあとをうけ大臣 (おおおみ) となった。仏法を信仰し,排仏派の政敵物部守屋を587年滅ぼし専権をふるった。のちみずから擁立した崇峻天皇を殺害し,妹堅塩媛 (きたしひめ) の生んだ推古天皇を擁立,摂政の聖徳太子とともに政治を指導した。氏寺として法興寺を建立し,『天皇記』『国記』などの国史を編纂した。

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世界大百科事典(旧版)内の蘇我馬子の言及

【石舞台古墳】より

…なお,古墳築造の際,小古墳群が破壊されている。626年に死んだ蘇我馬子の桃原墓にあてる説があるが,蓋然性が高い。【猪熊 兼勝】。…

【冠位十二階】より

…従来,豪族たちは大和朝廷において氏ごとに一定の職務を世襲し,その政治的特権の表象として特定の冠を襲用してきたが,これは,それとは別に個人を対象とし,昇進の原則をもつ新しい冠位制度であった。制定者は推古朝の皇太子聖徳太子と考えてよいが,時の大臣蘇我馬子の関与も十分考えられる。冠名は徳を初めに置き,以下に仁・礼・信・義・智の五常の徳目をとり,おのおのを大・小に分けて12階とし,各階に相当の色を定めたが,その具体的な内容は不明。…

【国記】より

…聖徳太子が蘇我馬子とともに編集したという歴史書。《日本書紀》の推古28年(620)条に〈天皇記及国記,臣・連・伴造・国造・百八十部幷公民等本記を録す〉とある。…

【嶋宮】より

…嶋宮の池には,中島があり,荒磯も造られ,石(いわ)ツツジなども植え込まれていた。この嶋宮は,蘇我馬子が飛鳥川の辺に営んだ家に由来する。馬子の死去を記す推古紀34年(626)5月条によれば,馬子の家の庭中には,小池が掘られ,池中には島が起こされていて,その様は嶋宮に酷似している。…

※「蘇我馬子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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