日本歴史地名大系 「英賀庄・英賀」の解説
英賀庄・英賀
あがのしよう・あが
「和名抄」にみえる渡庄目録(九条家文書)によれば、英賀庄の田一五町一段一五代(所当は三〇余石)は御随身久重に与えられたが、久重がこれを辞退したため医師尚康朝臣が相伝しており、年貢を出すようにと命じられていた。後法興院雑事要録(陽明文庫蔵)に文明一一年(一四七九)当時の殿下渡領として庄名がみえ、為親朝臣の知行地であった。なお渡庄との関係は不詳だが、応永六年(一三九九)一二月二三日の大報恩寺領目録(大報恩寺文書)に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報