改訂新版 世界大百科事典 「阿賀」の意味・わかりやすい解説
阿賀[町] (あが)
新潟県中東部,東蒲原(ひがしかんばら)郡の町。2005年4月鹿瀬(かのせ),津川(つがわ)の2町と上川(かみかわ),三川(みかわ)の2村が合体して成立した。人口1万3303(2010)。
鹿瀬
阿賀町北東部の旧町。東蒲原郡所属。人口2951(2000)。東は福島県に接する。南部を阿賀野川が西流し,北東部には飯豊連峰があり,町域の95%を山林が占める。近世は会津藩領で,廃藩置県後は若松県に属したが,1886年新潟県に編入。現在も会津盆地とのつながりが深い。1929年阿賀野川上流に豊実・鹿瀬両ダムが建設され,この電力と付近から産する石灰石を利用して化学肥料を生産する昭和電工鹿瀬工場(現,新潟昭和)が立地し,隆盛をみた。しかし,64年に発生した阿賀野川有機水銀中毒事件(新潟水俣病)の発生源となり,工場は縮小され,町の人口も往時の1/3となり,過疎化,高齢化が進んでいる。阿賀野川沿いにJR磐越西線が通じる。阿賀野川ライン県立自然公園があり,観光開発も盛んで,麒麟山温泉,角神温泉,鹿瀬温泉がある。
上川
阿賀町南部の旧村。東蒲原郡所属。人口3383(2000)。東と南は福島県に接する。阿賀野川左岸の支流常浪(とこなみ)川流域を占め,大半が山林からなる山村で,支流の柴倉川,室谷(むろや)川の谷に集落が分布する。常浪川ダムが建設中である。かつては県内の市町村では2番目に広い面積(360.5km2)をもっていたが,耕地は2%ほどしかなく,かつては焼畑による雑穀栽培,薪炭生産が盛んであった。第2次世界大戦後は過疎化が進み,豪雪地帯であることから,1969年以降下流への集落移転が実施されている。近年は山菜採取が盛んで,山菜加工センターも建設された。とくに室谷ゼンマイは品質のよいことで知られる。御神楽温泉,小瀬ヶ沢洞穴,室谷洞穴がある。
津川
阿賀町中東部の旧町。東蒲原郡所属。人口5209(2000)。阿賀野川と常浪川の合流点にあり,町域の8割は山林,市街は南岸の盆地の狭い段丘上にある。中心地津川は新潟と会津若松のほぼ中間に位置し,近世は阿賀野川水運(津川船道(ふなどう))と会津街道の結節点の河港町,宿場町として栄え,今も旧河港跡が残されている。会津街道は諏訪峠を経て赤谷,新発田に通じていたが,峠付近には石畳の道が残されている。渓谷美の阿賀野川ライン県立自然公園の中心であり,麒麟山はユキツバキの自生地で知られる。磐越西線,国道49号線が通じ,磐越自動車道の津川インターチェンジがある。
執筆者:佐藤 裕治
歴史
会津蘆名氏の一族藤倉盛弘(金上氏の祖)が1252年(建長4)津川城を築き,1589年(天正17)蘆名氏滅亡後は会津藩の支城として重きをなした。阿賀野川と会津街道の交差点に立地する津川町はその城下町として水陸の便を得て発達し,1610年(慶長15)には本町173軒を数えた。城は17年(元和3)に破却されたが,上方との流通の発達によって会津藩の西口の陸継ぎ河岸場として重要性を増し,町も繁栄して65年(寛文5)には354軒に増加した。会津からは城米(約5万俵)を中心に麻苧(まお),薪炭などが会津街道を馬背で送られ,津川で河船に積み替えられて阿賀野川を下った。上り荷は瀬戸内塩(最盛期4万俵)を中心に四十物(あいもの),木綿物,鉄,雑貨類が陸継ぎされた。津川から新潟までの舟運を津川船道といい,多くの町民がこれに関係した。1875年(明治8)418戸。1914年磐越西線開通により河港町の歴史を閉じた。
執筆者:小村 弌
三川
阿賀町北西部の旧村。東蒲原郡所属。人口4270(2000)。阿賀野川の谷口にあり,村の中央を阿賀野川が西流し,川沿いに磐越西線,国道290号線が通じ,磐越自動車道の三川インターチェンジがある。村域の大半を山林が占める。近世は会津藩領で,廃藩置県後も若松県に属したが,1886年新潟県に編入された。かつての会津街道は諏訪峠から新谷(あらや)を経て赤谷盆地に通じており,新谷,綱木は宿場町として栄えた。新谷の北東の三川鉱山に日本鉱業三川鉱業所があって鉄,亜鉛,鉛を産したが1961年に閉山した。交通の便の良さから,第三セクターによるゴルフ場開発,阿賀野川ラインの舟下りを中心とした観光開発が行われている。岩谷の平等寺薬師堂は室町時代の建築で重要文化財に指定されており,境内には将軍杉(天)がある。
執筆者:佐藤 裕治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報