日本歴史地名大系 「茜部村」の解説 茜部村あかなべむら 岐阜県:岐阜市旧厚見郡地区茜部村[現在地名]岐阜市茜部・水主町(かこまち)・境川(さかいがわ)・茜部辰新(あかなべたつしん)・茜部本郷(あかなべほんごう)・茜部大野(あかなべおおの)・茜部中島(あかなべなかじま)・茜部菱野(あかなべひしの)・茜部新所(あかなべしんしよ)・茜部神清寺(あかなべしんせいじ)・茜部大川(あかなべおおかわ)・茜部寺屋敷(あかなべてらやしき)・茜部野瀬(あかなべのせ)・茜町(あかねちよう)鶉(うずら)村の東に位置。南北に細長い平坦地で、南は境川で区切られ、北を荒田(あらた)川が流れる。荒田川沿いには水手町・大野の集落があり、境川に沿って新所・神清寺・寺屋敷・野瀬・更屋敷(さらやしき)の集落が並ぶ。本郷は村北部にあって、菱野の集落が南に控える。奈良東大寺領茜部庄の遺称地で、同庄ははじめ厚見庄と称されたが、天徳四年(九六〇)一二月二七日の太政官牒(東南院文書)には茜部庄とみえる。天正一二年(一五八四)三月、羽柴秀吉は徳川家康と対立した(小牧・長久手の合戦)。このとき岐阜城主池田元助は秀吉方に味方した。合戦は長期化し、徳川方が羽栗(はぐり)郡竹鼻(たけがはな)(現羽島市)に侵入したため、池田より援助を要請された秀吉は、一柳市介らに対して、当地に布陣し、もしも敵方が行動を開始した際には防衛すべきことを命じている(同年四月一二日「羽柴秀吉書状」一柳文書)。同一七年一〇月の検地帳(竹内文書)が残る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by