さかい‐がわさかひがは【境川】
- ( 上流が相模国と武蔵国との国境を流れているため ) 神奈川県中東部を南流する川。多摩丘陵に発し、藤沢市片瀬で相模湾に注ぐ。河口付近は片瀬川と呼ばれる。
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境川
さかいがわ
津久井郡城山町に源を発し、相模原市・大和市・藤沢市の東境を流れ、相模湾の江の島の傍らに注ぐ。全長五二・一四キロ。この川の上・中流が旧武蔵・相模両国境を流れるのでこの名があるが、また高座川ともよばれ、流域によって名称も変わる。すなわち旧深見村(現大和市)では田舎川、旧上和田村(現同市)では高倉川、旧藤沢宿では音無川、川口近くでは片瀬川とよばれる。
水源である城山町川尻の本沢峰の谷間から東流、字雨降で旧武蔵・相模国境に出、小松川などを合せて境川と称し、東南に流れを変える。以下、相原・橋本・小山・上矢部(相模原市)、下鶴間(大和市)を経て深見で旧高座・鎌倉郡境を南下、上和田(大和市)、今田・西俣野・旧藤沢宿内の大鋸・弥勒寺・川名・鵠沼・片瀬(藤沢市)を経て海に入る。
境川
さかいがわ
白鳥山・犬ヶ岳・初雪山系から越中・越後の国境を流れ日本海に注ぐ。流長約九・二キロ。「令義解」公式令にみえる神済を当川とする説がある。「越中志徴」は康和年中(一〇九九―一一〇四)成立の「堀河院御時百首和歌」に載る藤原顕季の「舟もなく岩波たかきさかひ川水まさりなは人もかよはし」は、当川を詠じたものとする。文明一八年(一四八六)聖護院道興は「宮崎を立て、さかい川、たもの木、かさはみ」と当川を越えて越後に向かった(廻国雑記)。延文四年(一三五九)幕府の追討を受けた越中国前守護井上暁悟は能登国人大隅貞章に攻められ「宮崎・堺河」に退き戦っている(同年一一月日「得田章親代大隅貞章軍忠状」遺編類纂所収得田文書)。
境川
さかいがわ
愛知県のほぼ中央、矢作川の西を南西流し、三河湾に注ぐ。延長約二六キロ、流域約一二〇平方キロ。川名は尾張と三河の境界をなすことによる。水源は西加茂郡三好町北部と豊田市との境界付近の丘陵で、猿投山東南麓から南西に延びる猿投境川断層に沿って流れ、丘陵・台地を開析して浅い谷をつくる。水源地域の森林状態が悪いため崩壊した土砂がしだいに河床を高め、堤防内は田面より三メートル余も高くなった所がある。
境川
さかいがわ
堺川とも書く。長良川の支流で延長流路約二三キロ。源は各務原市北部で、各務原台地の西縁沿いに南西流し、岐阜市に入る。この間、台地西端付近で木曾川沿いの各務原市中屋付近で截頭されて北西流する三井川を合せる。岐阜市からは同市と岐南町・笠松町・柳津町の境を西流から南西流に向きを変えながら蛇行、柳津町中央部を南流したのち、同町および岐阜市と羽島市の間を西流して長良川に注ぐ。截頭された三井川と合流点以後の下流区間は、天正一四年(一五八六)に発生した大洪水までの木曾川本流河道であり、美濃と尾張の国境になっていた河道である。この区間の左岸は中世までは尾張国葉栗郡・中島郡に属しており、天正一四年以後、木曾川本流河道がほぼ現在の河道に固定されるに伴い美濃国に編入され、羽栗郡・中島郡となった。
境川
さかいがわ
高来町域の北部から西部に流れる二級河川で、湯江境川ともいう。流路延長七・五五キロ、流域面積一八・一八平方キロ。佐賀県境の多良岳などを水源とし、その南の五家原岳・仏ノ辻・烏帽子岳の間を流れ、湯江地区で有明海(諫早湾)に注ぐ。江戸時代、汲水名で取水する宇良大井手、それより川上の水盛井堰などの灌漑用水があったが、その用水をめぐる対立があった。また湯江村などでは紙漉が盛んに行われ、肥前佐賀藩諫早家領内の特産湯江紙として知られた。
境川
さかいがわ
六甲山地西端、明石海峡に臨む海岸に位置する鉢伏山(二四六・三メートル)に発し、南面の谷を南流して海に入る全長八〇〇メートルほどの小河川。水量は乏しく平素は涸れ谷。摂津国と播磨国の国境となったところから名付けられた。摂播国境をめぐっては各所で争論が起こったが、摂津八部郡・播磨明石郡境の寛文九年(一六六九)の争論は播磨側の塩屋村・垂水村(現垂水区)が、当川の東、街道沿いにある境の松を国境と主張し、摂津側西須磨村の漁場侵犯を差止める訴えを起こしたことに始まる。
境川
さかいがわ
遠江・三河両国境界を流れる二級河川。湖西丘陵西の西長谷から県境を北上し境宿を経て新所原で西に湾曲して愛知県へ入り、梅田川へ合流し渥美湾に注ぐ。合流点までの延長四八〇〇メートル。堺川とも書く。「海道記」の作者は貞応二年(一二二三)四月一〇日に「やかて高志山にかかりぬ、(中略)この林地を遥かに行けは、山中に境川あり、これより遠江の国にうつりぬ」と記す。
境川
さかいがわ
熊本県と鹿児島県の境界をなす川で、長さ一千一〇〇メートル。矢筈岳(六八七・三メートル)から北西へ一直線に流れて八代海に注ぐ。「国誌」に神ノ川として「小川也、茂銅山ノ南ノ麓ヲ流ル、水源箭筈嶽ノ山渓ヨリ出、是肥薩ノ堺川也、往還筋川中ノ飛石一箇アリ、洪水ニ流ルレハ両国ヨリ人夫出テ捜スト云」とある。国鉄鹿児島本線の東側を通る旧薩摩街道には、明治一六年(一八八三)に造られた眼鏡橋が架かっているが、江戸時代にはここに国境を示す境札が立てられており、橋の北側には「此川半より北 細川越中守領分 熊本札辻より是まで弐拾五里弐丁九間」とあり、南側には「此川半より南 鹿児嶋領 下町札辻より弐拾六里三拾丁」と記されていた(薩陽往返記事)。
境川
さかいがわ
上相原の大地沢などを水源として神奈川県藤沢市を経て江の島で相模湾に注ぐ。武州と相州の国境を流れ、全長五二・一四キロ。別称高座川ともいう。江戸時代、上流筋の小山村あたりでは川幅四間―五間で、あばれ川ともいわれるだけに大雨の際はしばしば同村あたりで氾濫した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
境川(山梨県)
さかいがわ
山梨県中部、東八代郡(ひがしやつしろぐん)にあった旧村名(境川村(むら))。現在は笛吹(ふえふき)市の西部を占める一地区。2004年(平成16)春日居(かすがい)町、石和(いさわ)町、御坂(みさか)町、一宮(いちのみや)町、八代(やつしろ)町と合併、市制施行して笛吹市となる。旧村域は、甲府盆地の南縁、御坂(みさか)山地北麓(ほくろく)の曽根丘陵(そねきゅうりょう)の東半を占める。国道358号が通じ、中央自動車道の甲府南インターチェンジが近い。果樹栽培が盛んである。丘陵上には縄文時代の遺跡(京原遺跡、辻(つじ)遺跡など)をはじめ、古墳も43基を数え、小丘坊ヶ峰(ぼうがみね)には5基の電波塔が立ち、甲府盆地の夜景が美しい。俳人飯田蛇笏(いいだだこつ)・飯田龍太(りゅうた)父子の生地・居住地で、小黒坂(おぐろさか)に「山廬庵(さんろあん)」がある。
[横田忠夫]
『『境川村誌』(1978・境川村)』
境川(神奈川県)
さかいがわ
神奈川県の東部を北から南へ流下し、その流路が武蔵(むさし)・相模(さがみ)両国の国境をなしていたのでその名がある。延長52.1キロメートル、流域面積192.3平方キロメートル。支流数8。源を八王子市(東京都)と相模原(さがみはら)市(神奈川県)との境の多摩丘陵北西端脚部に発源し、現在、上流は町田(東京都)、相模原両市の境界、中流部は横浜市と大和(やまと)・藤沢両市の境界、そして下流部は国道1号の橋の上流約1キロメートルから両岸とも藤沢市域となり、片瀬で相模湾に流入する。下流部は片瀬川ともいう。中・下流部では西岸低地に早くから水田が開けていたが、流域は多摩丘陵と相模原台地との間の侵食谷地形(境川断層)で、古くはまとまった生産地域としての展望はみられなかった。また、かつては灌漑(かんがい)用水源と排水路との役割を果たしていたが、近年は、ほとんど全流域にわたって都市化され、それに伴う川水の汚染と降雨時の異常増水、沿岸低地への浸水地として知られた。なお、1969年(昭和44)河川改修土地改良事業がいちおう完成している。
[浅香幸雄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
境川 (さかいがわ)
神奈川県の東部を南北に流れる川。県の北端部にある城山湖(1965年完成の人造湖)付近から発して,多摩丘陵の南縁を東流し,しだいに向きを南に変え,丘陵の西縁を南下し,丘陵内部から流出する小河川を合わせて,江の島の対岸で相模湾に注ぐ。延長52km,流域面積213km2。河口近くで最長の支流柏尾(かしお)川を合わせてからは片瀬川とも呼ばれる。上流部は東京都町田市と神奈川県相模原市との境界をなし,旧武蔵・相模両国境にあたることから境川と名付けられた。相模原市域を過ぎてからの中流部は横浜市泉区と藤沢市との境界をなす。下流部は藤沢の市街地内を流下する。流域は1950年代後半から急速に都市化が進み,中流部でわずかに水田がみられるにすぎない。
執筆者:伊倉 退蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
境川
さかいがわ
神奈川県中部を流れる川。名称は相模国と武蔵国の境界をなしたことに由来する。全長 69km。相模原台地と多摩丘陵の間を南東流し,現在も上流は東京都と神奈川県の境となっている。中流で南に向きを変え,藤沢市片瀬で相模湾に注ぐ。河口付近は片瀬川とも呼ばれる。流域の都市化に伴い,河水の汚濁と降雨時の増水に対する対策が進められている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の境川の言及
【木曾川】より
…木曾川西岸河口部には深層地下水を汲み上げて成立した長島温泉があり,名古屋大都市圏の保養地,遊園地としてにぎわっている。【溝口 常俊】
[歴史]
古くは吉蘇川,岐蘇川とも書き,所によって,広野川,鵜沼川,境川,墨俣(すのまた)川とも称された。水源地の木曾は森林資源が豊かで,信濃・美濃両国が帰属をめぐって争い,879年(元慶3)美濃に所属することに定められた。…
【長良川】より
…95年4月末までに推進派と反対派の会議は続けられたが,両者の主張は平行線のまま終了,河口堰は完成し,5月末に運用が開始された。【高橋 百之】
[歴史]
古くは長良川の主流は,上流郡上川が山県(やまがた)郡の中屋から西流して伊自良川を合わせ,方県(かたがた)郡の岩利(いわり)(ともに現,岐阜市)から南流して津保川を入れ,墨俣(すのまた)で境川(古木曾川)に合流していたが,1534年(天文3)の郡上川の大洪水で中屋から南下して,芥見で津保川に合流し,長良,鏡嶋(かがしま)(ともに現,岐阜市)を経て境川に入るようになった。1611年(慶長16)の洪水では,長良崇福寺の前に新川が分出して伊自良川に合流するようになった。…
※「境川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」