織田秀信(読み)おだひでのぶ

精選版 日本国語大辞典 「織田秀信」の意味・読み・例文・類語

おだ‐ひでのぶ【織田秀信】

  1. 安土桃山時代武将信忠長男幼名三法師三歳信長のあとを継ぐことになったが、のち豊臣秀吉に従属。関ケ原の戦で石田三成について敗れ、高野山幽居。天正八~慶長一〇年(一五八〇‐一六〇五

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朝日日本歴史人物事典 「織田秀信」の解説

織田秀信

没年:慶長10.5.8(1605.6.24)
生年:天正8(1580)
安土桃山時代の武将。織田信忠長子。岐阜城に生まれる。幼名を三法師という。天正10(1582)年6月の本能寺の変後開かれた清洲会議において,「信長の嫡孫」ということで豊臣秀吉に推され,わずか3歳で織田家の継嗣と決められた。はじめ織田信孝によって岐阜城に抑留されたが,秀吉が岐阜城を攻め,三法師を奪い返して織田信雄を後見として安土城に入れた。同11年元服し,秀吉から諱の1字を与えられて秀信と名乗り,従四位下・侍従に叙任された。文禄1(1592)年,岐阜城主となって13万石を領し,慶長1(1596)年には従三位・権中納言に進んでいる。同5年の関ケ原の戦には石田三成の誘いをうけて西軍となり,岐阜城に籠城するが,8月23日,東軍の福島正則,池田輝政らの攻撃を受けて降服した。一命は助けられたが,城下加納の円徳寺に入って剃髪し,さらに高野山に上り,同地で没した。

(小和田哲男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「織田秀信」の意味・わかりやすい解説

織田秀信 (おだひでのぶ)
生没年:1580-1605(天正8-慶長10)

安土桃山時代の武将。信忠の長子。幼名三法師。本能寺の変後,清須会議羽柴(豊臣)秀吉に擁されて織田家の継嗣に決まり安土城に入る。その後岐阜に移り,秀吉から一字を与えられ秀信と名のる。1592年(文禄1)従四位下侍従,96年従三位権中納言。関ヶ原の戦では石田三成にくみし岐阜に籠城したが陥落。自殺しようとしたが,寄せ手の将福島正則にとどめられて下り,剃髪後高野山に幽居し,病死した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「織田秀信」の解説

織田秀信 おだ-ひでのぶ

1580-1605 織豊時代の武将。
天正(てんしょう)8年生まれ。織田信忠の長男。織田信長の孫。本能寺の変後の清洲(きよす)会議で羽柴(豊臣)秀吉に支持され,3歳で織田家を相続。天正20年美濃(みの)岐阜城主(13万3000石)。関ケ原の戦いでは西軍に属して敗れる。出家して高野山にはいり,慶長10年5月8日死去。26歳。美濃出身。幼名は三法師(さんぼうし)。

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世界大百科事典(旧版)内の織田秀信の言及

【前田玄以】より

…美濃の出身で比叡山で得度したという。織田信忠に仕え7000石を与えられていたが,1582年(天正10)の本能寺の変に際し三法師(織田秀信)の後事を託されて岐阜に逃れ,三法師を擁して清須に赴いた。そして織田信雄のもとで京都の奉行となったが,豊臣秀吉が政権を掌握してのちもそのまま京都の庶政を担当し,故実に通暁する才能を深く信頼された。…

※「織田秀信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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