草谷村(読み)くさだにむら

日本歴史地名大系 「草谷村」の解説

草谷村
くさだにむら

[現在地名]稲美町草谷

野寺のでら村の北東、草谷川中流の南北両岸と高位段丘面にかけて位置する。東端には三木合戦の際、魚住うおずみ(現明石市)から毛利氏が食糧輸送に使ったと伝えられる道(現県道土山―三木線)が南北に走る。付近には落城らくじよう坂などの地名も残る。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方三一〇石余・畑方八九石余。元禄郷帳では高二九六石余。石高が減少したのは、下草谷村が分村したためと思われる。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(大住文書)によると高五二一石余、反別六六町九反余、家数五三(本百姓四三・水呑百姓一〇)・人数三八五、牛二五、池五。天保郷帳では高五八二石余。


草谷村
そうやむら

[現在地名]作手村高里たかさと

長者平ちようじやひら村の西北にある。天正年間(一五七三―九二)までは長者平村に属していたが、慶長年間(一五九六―一六一五)に分村したものと思われる。慶長七年より作手藩領、同一五年より幕府領、天和元年(一六八一)より鳥羽藩領、享保一一年(一七二六)より幕府領、享和二年(一八〇二)より平藩安藤対馬守領となり、文久二年(一八六二)幕府領に復し幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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