鉄,銅の鋳造を職能とする職人。銅鐸・銅鏡などの鋳銅は,弥生時代以来,九州,瀬戸内海沿岸,畿内などの鋳工によって行われたが,鋳鉄は古墳時代以降のことと見られる。飛鳥時代以後,造仏の盛行により鋳造技術も著しく進歩した。鋳工は畿内を中心に山陽道,大宰府等の各地に散在していたが,律令制下,大蔵省被官の典鋳司および鋳銭司,諸寺院の鋳物所などに組織された。しかし典鋳司は実質的には機能せず,728年(神亀5)内匠寮に併合される。762年(天平宝字6)の《正倉院文書》にみられる山城国相楽郡岡田鋳物師王広嶋は,鋳銭司に属する人とみられるが,これが鋳物師の初見で,818年(弘仁9)鋳銭司に鋳物師2人が置かれている。
10世紀以後,内匠寮などの鋳物師は蔵人所に統轄されるようになったと推定され,1079年(承暦3),殿上の鉄灯炉を調進する蔵人所鋳物師が現れる。そして1165年(永万1),蔵人所小舎人惟宗兼宗が年預となり,河内国日置荘(狭山郷)の鋳物師を番頭とし,諸国散在の鋳物師に短冊をくばってこれを番に編成,天皇に灯炉などの課役を調進する蔵人所灯炉以下鉄器物供御人(くごにん)(通称,灯炉供御人)が成立する。つづいて1168年(仁安3),河内,和泉,伊賀の辺で活動する広階姓鋳物師を惣官とし,おそらく蔵人所小舎人紀氏を年預とした別の灯炉供御人が組織される。前者が右方作手,土鋳物師であり,後者は左方作手,廻船鋳物師といわれた。さらに80年(治承4)に平氏に焼かれた東大寺大仏が再建されたとき,勧進上人重源の下でこの事業に携わった草部姓鋳物師が東大寺鋳物師といわれる別の集団を形成する。諸国の鋳物師はこの3集団に組織され,蔵人所牒によって諸国の往反自由,津料等の交通税および課役免除の特権を保証されて売買交易に従事,1212年(建暦2)幕府による特権の保証も得た。中世の鋳物師組織は,こうして軌道にのった。
平安末・鎌倉期,鋳物師たちは打鉄(うちてつ)・熟鉄(じゆくてつ)等の原料鉄,鍋・釜・鋤・鍬等の鉄製品,さらに絹布,大豆,小麦等まで持ち,広く諸国を遍歴し交易を行った。とくに左方廻船鋳物師は,堺を起点に九州,山陰,北陸を通り,琵琶湖,淀川を経て起点に戻る広域的な活動をしている。鎌倉中期,この左方惣官となった中原光氏は東大寺鋳物師(大仏方)惣官を兼ね,河内,長門などの鋳物師を組織する右方と競合しつつ,いったんは大宰府につながる鎮西鋳物師もその支配下に入れた。このころ3集団の年預も紀氏に統合されたと推定されるが,一方では幕府や守護と関係を強め,東国,北陸に移住する鋳物師も増えてくる。北条氏と結びついた物部姓鋳物師,鎌倉大仏を鋳造した新大仏鋳物師,佐野天明の卜部姓鋳物師などは東国に新天地を求め,大宰府と鎮西鋳物師のごとく,諸国守護につながる地域的鋳物師集団の独自性も強まってきた。おのずと年預・惣官の統制も困難になり,加えて各地の津泊に設定された多くの関は鋳物師の遍歴を妨げ,年預・惣官の統合の努力にもかかわらず,全国的な灯炉供御人の組織は解体に向かう。鎌倉末期,左方に代わって右方の支配下に入った鎮西鋳物師は,南北朝期には大宰府の補任する宰府惣官に統轄され,室町期にかけて,長門国大工,備後国大工のごとく,守護によって補任された1国ないし数国の大工,惣官も現れる。鎌倉後期には確認される各地の鉄屋=金屋(かなや)は,鋳物師の集住する作業場であり,諸国鋳物師はそこを根拠に,1国ないし数国を商圏とし,守護の保証の下に生産,交易に従事するようになった。1413年(応永20)の越中国鋳物師は棟梁20宇,寄人を合わせて250宇であったが,これはかなり大規模な集団であろう。諸国鋳物師は守護の課役・棟別銭の免除を得るために,なお京の年預の力を必要とし,河内,和泉の鋳物師も本座の立場から諸国の新座の鋳物師に統制を加えており,紀氏を年預とする左方,右方,大仏方の供御人組織は形骸化しつつも,室町期を通じて維持された。
しかし戦国期に入り,戦国大名は武器・鉄砲等の生産を把握すべく鋳物師をその支配下に置いたので,供御人組織は解体,紀氏も借銭のため没落寸前となったが,柳原家の家臣真継久直(真継家)は紀氏の家を乗っ取り,1543年(天文12)後奈良天皇綸旨を得て鋳物師組織再興にのり出す。今川氏を手始めに,久直は49年以後,大内氏の領国を遍歴,鋳物師公事役徴収を保証された。そのさいの鋳物師たちの要求に応じ,久直は蔵人所牒を偽造,裏菊の紋とともに鋳物師に配付,真継家との関係を固めることに努めた。久直は孫康綱とともに,さらに上杉氏,北畠氏,畿内の鋳物師,89年(天正17)には関東の佐竹氏,江戸氏などの工作を推進,織豊政権・江戸幕府の保証を得て,全国的な鋳物師組織の近世的な復興を達成した。しかし江戸初期,真継家の鋳物師支配は精彩を欠き,江戸,名古屋,京,大坂など幕府,親藩の直轄下の鋳物師はもとより,各地の鋳物師との結びつきも弛緩する。貞享・元禄(1684-1704)ごろ,真継珍弘の代以後,真継家は鋳物師職許状,大工職充行状,偽牒写等を各地の鋳物師に給付,組織強化を推進し,宝暦~安永(1751-81)ごろの量弘はあらためて全国鋳物師支配の承認を求め,ともあれ既得権を再確認された。真継家はその代替り,鋳物師の代替り,年頭・八朔に鋳物師からの礼物を受け取るかわりに,鋳物師の営業許可,受領官途の取次,鋳物師の商圏にかかわる紛争の調停を行った。寛政(1789-1801)ごろ,康寧は多くの文書を発給してさらに組織の形をととのえ,公家の職人支配の一典型であった真継家の鋳物師支配は1870年(明治3)まで継続している。一方,鋳物師の中には江戸後期,蘭学を学んで技術の発展を模索する動きもみられ,幕末・明治の変革に当たって,大砲鋳造にその技術が生かされたことも,最近,明らかにされている。
→鋳造
執筆者:網野 善彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
「いもじ」ともいい、銅、鉄を材料としておもに生活用具を鋳造する職人。その技術は、金属加工の導入された前3世紀には、鍛造(打物(うちもの)、鍛冶(かじ))と並んで始められていて、やがて、鏡作(かがみつくり)、金仏(かなぶつ)工といった工人が生まれた。古代末期の12世紀には、需要の増加によって、鋳物師が鍛冶(打物師)とともに職人として専業化した。おもに鋳物師は鍋(なべ)、釜(かま)といった生活用具や鍬(くわ)、鋤(すき)といった農耕具を生産していた。多く集団で生産し、その製品を販売していた。
中世の特産地は、河内(かわち)の丹南、大和(やまと)の下田、京の三条、播磨(はりま)の野里、能登(のと)の中居、相模(さがみ)の鎌倉、下野(しもつけ)の天明などで、なかには座(ざ)としての特権をもっていたものもあった。江戸初期にはかわって越中(えっちゅう)の高岡、筑前(ちくぜん)の芦屋、武蔵(むさし)の川口などの鋳物業がおこった。このころでは御用鋳物師といわれる特権的な真継(まつぎ)家に支配される諸国の鋳物師と、株仲間を組織した三都の鋳物師とが生産と経営を維持していた。一般に居職(いじょく)であるが、梵鐘(ぼんしょう)などの生産のときは出職(でしょく)することもあった。また、鏡の鏡師、茶釜の釜師、仏具の仏具師が分化した。工具は、粘土または金属製のるつぼ、甑(こしき)、取瓶(とりべ)、鋳型とふいごである。仕事は鋳型つくりが主で、粘土、蝋(ろう)、金属、木などの原型により土や砂でつくられた。惣(そう)型、砂型、込(こみ)型などがあり、量産された。日常的な鍋、釜を修理する鋳掛師(鋳掛屋)も近世には分化していた。
[遠藤元男]
「いものし」とも。金属をとかして鋳型に流しこみ,武器や像・鐘・鍋・釜などを作る工人。平安末期には蔵人所(くろうどどころ)に属し,灯炉供御人(とうろくごにん)として灯炉を製造し,朝廷に献ずる職人となった。蔵人所から交通税の免除などの特権を与えられ,原料と需要を求めて自由に諸国を遍歴し,やがて各地に鋳物業の中心を作った。とくに河内国丹南郡の鋳物師が蔵人所の供御人として独占権をふるい,能登の中居(なかい)(現,石川県穴水町)など諸国の鋳物師は,丹南の鋳物師に与えられた綸旨の写しを所持するようになった。近世には蔵人所直属の京都の真継(まつぎ)家が朝廷の権利を背景に諸国の鋳物師を統制しようとした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…鋳掛けは鋳物技術の一手法で,なべ,釜など銅・鉄製器物の破損を同質の金属,またははんだの一種である白鑞(しろめ)を溶かして継ぎ掛けることであり,その職人を鋳掛屋または鋳掛師といった。基本的には鋳物師(いもじ)から分化した専門職人である。その専業化は,白鑞の利用がひろまってきた17世紀になってからのことである。…
…各地の伝説では,吉次を炭焼藤太の名とも,その子の名ともされ,あるいは黄金採掘で富を築いた富豪の名とも,その召使の名ともされ,一面では致富譚として伝えられ,他面では非業の死を遂げる没落譚として伝えられる。《平治物語》に義経の郎従堀弥太郎を金商人とし,《弁慶物語》に〈金細工の吉内左衛門信定〉〈腹巻細工の四郎左衛門吉次〉なる者が登場し,《平治物語》《烏帽子折》に義経元服の地とされる鏡宿が鋳物師(いもじ)村とも称されたことなどから,炭焼・鋳物師・金細工・金商人は相互に交流があって,これらの漂泊民が義経・吉次伝説の成長・伝播などに関与したのではないかと推測されている。吉・藤の字を名に持つ一群の人々や鋳物師たちは,話を好む芸能の徒でもあったらしいことは,さまざまな例があり,また《古今著聞集》興言利口の部などにうかがえ,《義経記》で牛若丸に奥州の歴史と状況を語る吉次の雄弁も,これらのことを暗示するものとも考えられなくはない。…
…中世における鋳物師(いもじ)の座。鎌倉末の1289年(正応2)ごろには,京都三条町に釜座が成立している。…
…だが丁場(ちようば)と呼ばれる石切場で石材採掘をする山石屋のあいだでは山の神をまつる風習があり,11月7日に丁場にぼた餅,神酒を供えてまつり一日仕事を休む。 冶金,鋳金,鍛鉄の業,すなわち鑪師(たたらし)や鋳物師(いもじ),鍛冶屋の神としてその信仰のもっともいちじるしいのは荒神,稲荷神,金屋子神(かなやごがみ)である。荒神は竈荒神,三宝荒神の名があるように一般には竈の神,火の神として信仰され,なかには別種の荒神として地神,地主神あるいは山の神として信仰される場合もあるが,鍛冶屋など火を使う職業の徒がこれを信仰することは,火の神としてまつられる荒神の性格からきたものであり,それには修験者や陰陽師などの関与もあった。…
… 古い専業的な炭焼きは,鉱山の精錬や鍛冶の技術に付随して発達したものであった。大分県の山村で木炭をイモジと呼んだのも鍛冶とかかわりのある鋳物師(いもじ)にもとづいた。滋賀県の比良山系周縁には,鉄滓(てつさい)の散布する多くの古代製鉄遺跡があるが,それらの付近に〈金糞(かなくそ)松ノ木〉とか,〈九僧谷(くそだに)〉(金糞谷の転訛か)と隣接して〈炭焼〉という地名が残存するのも,これと無関係ではない。…
…天明鋳物では湯釜,梵鐘,鰐口が名高く,現存最古の天明鋳物は元亨元年(1321)銘の梵鐘(安房日本寺)である。天明鋳物師(いもじ)が文献上明らかとなるのは15世紀に入ってからで,座的組織をもって活動していた。その行動範囲は,下野はもとより関東一帯に及び,さらに畿内にまで広がり,15世紀中ごろには和泉・河内の鍬鉄鋳物師の営業権を脅かすほどにもなっていた。…
…上・下帯の間を縦に4区に分けるのが縦帯で,そのうち2本は竜頭の長軸に合わせる。鋳物師の間ではこれを〈六道(ろくどう)〉と呼ぶ。上帯の下にある横長の4区画を乳の間(にゆうのま∥ちのま),または乳の町という。…
…備前国岡山の《池田家履歴略記》,出雲国松江松平家の《烈士録》,豪商の《三年寄由緒》,長崎貿易に関する《糸割符(いとわつぷ)由緒書》など,事例が少なくない。【金井 円】
[職人の由緒書]
平安時代末期から鎌倉時代にかけて,鋳物師(いもじ)(灯炉供御人(くごにん)),生魚商人(津江・粟津橋本御厨(みくりや)供御人など),地黄煎売(じおうせんうり)(地黄御薗(みその)供御人)など各種の供御人は,その特権の保証されたときの時期と天皇を訴訟などの際に強調し,その系譜の確かなことを誇っているが,これは事実であることが多い。しかし室町時代以後,この特権を保証していた天皇の実質的な力が弱化するとともに,この由来はしだいに伝説化し,不正確になり,正確な文書にも〈天照大神〉〈神武御門(みかど)〉などが登場するとともに,こうした伝説に基づく由緒書が書かれ,偽文書(ぎもんじよ)が作成されるようになってくる。…
※「鋳物師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新