荏隈郷
えのくまごう
古代大分郡荏隈郷(和名抄)を継承し、大分川の下流左岸、高崎山から上野丘につらなる舌状台地の南側に比定される。文治年中(一一八五―九〇)小山田貞遠によって作成利用された宇佐宮仮殿地判指図(宇佐神宮蔵)に「荏隈郷」とみえ、幣殿四方八尺、南楼西脇より南西角まで垣屋二八間、脇四間の一国平均役を負担している。建長六年(一二五四)六月五日の法眼幸秀・頼秀連署契状(志賀文書)によると、当郷と笠和郷・判太郷が接する境界地点に高国府(勝津留)が所在していた。豊後国弘安図田帳には「国領荏隈郷百六十町 地頭職大友兵庫入道殿」とあり、国領である当郷の地頭職は大友家の惣領頼泰が所持している。以後大友惣領家に相伝された(貞治三年二月日「大友氏時所領所職等注進状案」・永徳三年七月一八日「大友親世所領所職等注進状案」大友文書)。
正応二年(一二八九)三月三日の賀来社宮師僧円清譲状(柞原八幡宮文書)によると、由原宮の季供祭文田二町が荏隈と笠和に、平野新開二段給田一町が荏隈にある。
荏隈郷
えのくまごう
「和名抄」道円本・高山寺本・東急本ともに荏隈とみえる。郷域は現大分市荏隈・豊府地区から古国府に及ぶ大分川左岸の条里地割実施区域にあたる。古代・中世を通じて国府が所在し国衙領として存続、また西海道高坂駅が置かれて条里地割にそって官道が整備されるなど、交通の要衝でもあった。近年の発掘では、条里地割地域内から住居跡などが確認されつつあるが、南太平寺横穴墓群などの存在も郷成立の前提として注目される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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