勝津留(読み)かちがづる

日本歴史地名大系 「勝津留」の解説

勝津留
かちがづる

現大分市もと町とその周辺部をいう。平安後期に開墾の鍬が入り、のちに宇佐宮散在常見名田となった。「宇佐大鏡」によれば、寛徳二年(一〇四五)頃の当地区は荏隈えのくま郷・笠和かさわ郷・判太はた郷の境界域で「勝津留河尻野」といわれ、所有者はもちろん耕作者もいない荒野空閑地であったという。この原野の開発に最初に取組んだのは、豊後権介で荏隈郷司でもあった膳伴元恒(光恒)であった。膳伴元恒は勝津留の開発にあたって、永承元年(一〇四六)国衙に申請を出し、この地の所属が不明であり所有者・耕作者もいない土地であることを笠和・判太両郷の郷司らと確認し、私領とすることを認められている。勝津留はまさに未墾の原野であり、その開墾は苧・桑の植栽を経ての水田化という当時の西日本における典型的な開発のありかたにそうものであった。また元恒は支配下ないしは影響下にある荏隈郷の農民を開墾に参加させ、私領化を図ったものと考えられる。しかし国衙に税を納める責任を果せなかったのであろうか、私領化に失敗し、その権利は多米倉満に引継がれた。天喜元年(一〇五三)のことである。この領主権の継承をめぐって、倉満と豊後権掾伊賀為貞の間に争いがあったようであるが、豊後国在庁官人の賛同をえた倉満が、康平二年(一〇五九)裁定で領主権を認められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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