荷川取村(読み)んきやどうらむら

日本歴史地名大系 「荷川取村」の解説

荷川取村
んきやどうらむら

[現在地名]平良荷川取にかどり

北部は大浦うぷら湾、西部平良ぴいさら内海に面し、南東西仲宗根いなかずうに村に接する。平良間切に属し、平良五ヵ村の一つ。方音ではンキャドゥラ、ンキャドゥリャ。村の成立は古琉球にさかのぼると思われるが、白川氏六世の次女多仁千代盛は隆慶元年(一五六七)の生れで、荷川取与人の室となっており、同八世の長女嘉那志丸は万暦四四年(一六一六)生れで荷川取村宮金氏島尻文子の妻になったという(白川氏正統家譜)。両島絵図帳に「いきやたら村」とあり、高四四三石余。順治一五年(一六五八)初めて荷川取与人が置かれたというが(「球陽」尚質王一一年条)、おそらく当村は他村の与人(西仲宗根与人か)の管轄下に置かれ、この年に復活したのであろう。宮古島の諸村位定では布上・石(穀)(里積記)。村番所は村の真ん中に南西向きに置かれていた(雍正旧記)。一八八〇年(明治一三年)の県統計概表では戸数一〇六・人口四五三。八二年与人の不正を告発する事件が起きている(宮古島役所沿革小誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報