宮古(読み)ミヤコ

デジタル大辞泉 「宮古」の意味・読み・例文・類語

みやこ【宮古】

岩手県中東部、太平洋に面する市。三陸地方有数の港をもち、漁業・水産加工業のほか商工業も盛ん。平成17年(2005)田老町・新里村と合併。平成22年(2010)に川井村を編入。人口5.9万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「宮古」の意味・読み・例文・類語

みやこ【宮古】

[一] 岩手県東部の地名。宮古湾に臨む。古くから漁港として開け、現在は水産加工・冷凍施設のある漁業基地、臨海工業都市。海岸は陸中海岸国立公園の一部で、魹(とど)ケ崎・浄土ケ浜などの景勝地がある。昭和一六年(一九四一)市制。
[二] 沖縄県、宮古諸島を占める郡。伊良部(いらぶ)・下地(しもじ)・多良間などの八島からなる。

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日本歴史地名大系 「宮古」の解説

宮古
みやーく

宮古は、主島宮古島を中心に池間いきやま大神うがむ来間ふふやま伊良部いらぶ下地すむず多良間たらま水納みんなの有人島八島などからなる。ほとんど一〇〇メートル以下の平坦な隆起サンゴ礁の島々である。方音ではミャーク。宮古のほか、麻姑山まーくさん・都島、あるいは太平山たいへいざんなどとみえる。

〔先史時代より古琉球へ〕

先史時代は八重山とともに、九州の縄文・弥生文化の影響を受けた沖縄島以北とは異なり、南島文化圏のなかの南部圏、あるいは琉球文化圏のなかの南琉球圏ともよばれている。沖縄島と宮古を隔てる約三〇〇キロの宮古凹地とよぶ大海によって、有視界航行を困難にしていたからと考えられている。このため南琉球圏の時期区分はかりに先島編年が用いられている。前期・後期の二期に区分され、先島先史時代前期は約四〇〇〇―二五〇〇年前、同後期は二五〇〇―一一〇〇年前とみなされている。宮古の場合は今のところ前期の遺跡は多良間島に一ヵ所確認されているのみで、後期は宮古島東部に四ヵ所みられ、その下限は一九〇〇年前で止まっている。そのほかの九〇ヵ所近い遺跡はすべて一二―一六世紀とみなされており、グスク時代から琉球王国形成期にあたる。

文献に宮古の名が登場する初出は「元史」仁宗紀延祐四年(一三一七)一〇月条および「温州府志」巻一八で、「撤里即地面」交易の途次遭難・救助された「海外婆羅公管下密牙古人民」がいた。琉球人による南洋通商の最古の記録とされるもので、密牙古を宮古とする。また婆羅公の婆羅を宮古島の保良ぶら(現城辺町)に見立てる説もある(南島風土記)。「李朝実録」世祖八年(一四六二)二月辛巳条に弥抄槐(ミヤコ)、同書成宗一〇年(一四七九)五月辛未条に悖羅弥古(ボラミヤコ)、同書同年六月乙未条に(ミヤコ)とある。前者は宮古島、後者は与那国島で遭難した朝鮮人が救助され、島伝いに送還されたのち語った記録である。正徳四年(一五〇九)の百浦添欄干銘文は宮古・八重山を総称して太平山、嘉靖元年(一五二二)建立の国王頌徳碑は「みやこ」、同じ頃の「おもろさうし」巻一も「みやこ」である。袋中の琉球往来は「都」とするが、都島ともみえる(慶長一四年か、四月五日「椛山久高書状」旧記雑録)。ウィリアム・アダムズの「琉球航海日誌」はmeaco、両島絵図帳は宮古島、程順則「指南広義」は麻姑山(傍注太平山)とする。徐葆光の「中山伝信録」は「太平山一名麻姑山、始宮古、後迷姑、今麻姑」と記している。「歴代宝案」第二集目録上などでも太平山とする。

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改訂新版 世界大百科事典 「宮古」の意味・わかりやすい解説

宮古[市] (みやこ)

岩手県中東部,陸中海岸に臨む市。2005年6月旧宮古市と田老(たろう)町,新里(にいさと)村が合体して成立し,10年1月川井(かわい)村を編入した。人口5万9430(2010)。2011年3月の東日本大震災では,死者行方不明772人,全壊住宅3670戸にのぼった。

宮古市西部の旧村。旧下閉伊(しもへい)郡所属。人口3763(2000)。北上高地の中央部にあり,南西境の早池峰(はやちね)山をはじめ急峻な山々が広く分布する。中央部を閉伊川が多くの支流を集めて東流し,谷間をJR山田線が通る。農林業が主体で,畜産,タバコ,ワサビ,高冷地野菜の栽培が行われる。特に肉牛飼育の歴史は古く,短角和牛の原産地でもある。林業では早池峰山麓のヒバが有名。北上高地最高峰の早池峰山は高山植物の宝庫として知られ,県立自然公園に指定されている。

宮古市北東端の旧町。旧下閉伊郡所属。人口4800(2000)。東は太平洋に臨み,南は旧宮古市に接する。南部の田老川と北部の摂待(せつたい)川の河口付近に低地があるほかは,山地ないし台地である。たびたび津波の被害を受けたところで,1896年,1933年の三陸地震津波では全集落を流失したが,58年高さ10m,延長1350mの大防潮堤が完成した。61年には三陸フェーン大火により町域の5割が被害を受け,北西部にあって硫化鉄,銅,亜鉛などを産した田老鉱山は全焼し,71年に閉山した。現在はアワビ,ウニ,養殖ワカメなどの漁業と観光に力を注いでいる。陸中海岸国立公園の一角を占め,真崎(まさき),田老のリアス海岸や三王岩など景勝地が多い。三陸鉄道北リアス線,国道45号線が通じる。

宮古市中部の旧村。旧下閉伊郡所属。人口3785(2000)。東は旧宮古市に接する。北上高地の支脈に囲まれた峡谷型の山村で,中央部を刈屋川が南東流し,南部を東流する閉伊川に合流する。閉伊川に沿ってJR山田線が走り,茂市(もいち)駅から刈屋川沿いに岩泉線が北上する。総面積の9割以上が山林で占められ,木材関連工業が多い。刈屋には東北有数の生産量を誇る合板工場がある。
執筆者:

宮古市東部の旧市で,陸中海岸の宮古湾に臨む。1941年市制。人口5万4638(2000)。市街地は宮古湾に注ぐ閉伊川河口に立地し,古くから漁港として開け,近世には海陸交通の要地として栄えた。1934年国鉄(現JR)山田線が開通し,翌年には港湾が整備されて重化学工業関連の工場が誘致され,臨海工業都市に発展した。漁港は市内鍬ヶ崎(くわがさき)にあり,水産加工や製氷・冷凍の施設を有して,サンマ漁,北洋サケ・マス漁の根拠地として県内一の水揚高を誇る。1962年には魚市場に接続して1万トン岸壁の商工港が完成,その後港湾整備事業が進み,現在では藤原地区に埋立てによって4万トン岸壁が完成,商業専用埠頭となり,磯鶏(そけい)地区には木材港ができている。市域には本州最東端の魹ヶ崎(とどがさき)や陸中海岸国立公園の景勝地浄土ヶ浜,蛸ノ浜があり,津軽石川は南部鼻曲りサケで知られる。日出島クロコシジロウミツバメ繁殖地,崎山の潮吹穴および蠟燭岩は天然記念物に指定されている。山田線のほか,三陸鉄道北リアス線,国道45号線,106号線が通じる。
執筆者:

江戸時代,盛岡藩の代官所が置かれ,閉伊郡の太平洋岸に点在する集落の中心として発展した。中世に閉伊湊と呼ばれた地は宮古とみられるが,その起源は明らかでない。元和年間(1615-24)にようやく町並みが生まれ,ここから藩米,海産物,材木などが江戸方面に海上輸送され始めた。行政上は宮古村で,本町,横町,田町,向町,新町などの町から構成されていた。隣接する鍬ヶ崎湊と一体で宮古湊と総称されることが多く,1818年(文政1)の軒数は166で,藩の廻船取扱役所や専売品の塩の問屋などが置かれていた。軒数242の鍬ヶ崎町には御城米船問屋,諸廻船の船宿などがあった。宮古村の横山八幡宮は舟人の鎮守で,入津船の船乗衆から崇敬された。また,宮古は漁港としてにぎわったが,大杉神社は地元五十集(いさば)衆(魚屋)が講を組織し漁業豊饒を祈って祭りを行った。
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