改訂新版 世界大百科事典 「莅戸善政」の意味・わかりやすい解説
莅戸善政 (のぞぎよしまさ)
生没年:1735-1803(享保20-享和3)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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→莅戸太華
…また江戸の折衷学派の泰斗細井平洲を招き興譲館を創設した。改革は天明年間(1781‐89)に入ると,大飢饉の影響もあって一時挫折し,執政竹俣当綱,小姓頭莅戸(のぞぎ)善政らは失脚し,治憲も85年2月,家督を治広に譲って隠退した。ときに35歳。…
…その後天明の中断期をはさみ,いわゆる寛政の改革が実施された。治憲は隠退したが強力な後見者となり,執政は先に小姓頭で失職した中老莅戸(のぞぎ)善政が中心であった。改革は農村支配の整備のために代官制度を改革し,国産物の奨励を広くまた積極的に行い,とくに養蚕業の振興を図った。…
…これに対して,治憲を擁立するグループは江戸詰家老の当綱を柱としていた。これには莅戸(のぞぎ)善政,黒崎恭右衛門,木村丈八らが名を連ねていた。彼らは平右衛門暗殺の密謀を抱くようになり,当綱は63年(宝暦13)2月ひそかに米沢に下り,みずから奉行詰の間で平右衛門を一刀のもとに突き殺した。…
※「莅戸善政」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」