莅戸太華(読み)のぞき たいか

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

莅戸太華 のぞき-たいか

1735-1804* 江戸時代中期-後期の武士。
享保(きょうほう)20年生まれ。出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩士。藩主上杉鷹山(ようざん)に登用されて中老職,ついで奉行となり,農村の復興,地場産業の振興など財政改革を推進。藩校興譲館の基礎をきずいた。享和3年12月25日死去。69歳。名は善政。通称は九郎兵衛,六郎兵衛。別号南溟(なんめい)。著作に「翹楚(ぎょうそ)篇」「政語」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

莅戸太華

没年:享和3.12.25(1804.2.6)
生年:享保20(1735)
江戸中期の米沢藩(山形県)重臣。米沢藩の寛政改革で,大綱の立案と執行に当たった。幼名孫惣,通称九郎兵衛善政,太華は号。父平八郎は病身で,寛延4(1751)年7月太華17歳のときに死去。莅戸家は代々馬廻組であったが,父が若くして亡くなったため,祖父から家督した太華は中之間詰に入り,平番総筆頭,180石を与えられた。藁科松伯の菁莪館に学び,宝暦13(1763)年,竹俣当綱,木村丈八などと共に,藩政を握る郡代頭の森平右衛門を誅殺した。明和4(1767)年8月藩主上杉鷹山の小姓,6年町奉行となる。安永1(1772)年には小姓頭に進み,奉行竹俣当綱の最もよき理解者としてこれを助け,明和・安永改革を導いた。藩校興譲館の創設には御用懸を務めている。天明2(1782)年当綱が失脚すると,翌年職を辞し,いったんは隠居したが,寛政3(1791)年1月,寛政改革の計画と執行のため,中老として再登用された。改革は太華が立案した「総紕」に基づいて実行されたが,その内容は上書箱設置,領民休養,国産奨励など47カ条にのぼるものであった。6年奉行に任ぜられ,禄1000石を与えられたが,中級家臣としては初めての出世であった。文筆にもすぐれ,好古堂と称したが,藩主鷹山の言行を記した『翹楚篇』のほか,『政語』『好古堂随筆』など多数の著書を残している。<参考文献>杉原謙『莅戸太華翁』,横山昭男『上杉鷹山』

(横山昭男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典内の莅戸太華の言及

【莅戸善政】より

…江戸中期の米沢藩の重臣。通称九郎兵衛。太華,好古堂と号する。17歳で家督を継ぎ,中の間組に入る。1767年(明和4)に始まる明和・安永の改革に参画し,町奉行から小姓頭(300石)となった。上杉治憲(鷹山)治下のこの改革は,天明年間(1781‐89)の中断期を経て寛政改革へ引き継がれ,善政は改革の中心人物であった。91年(寛政3)中老職となり,改革の大綱《総紕(そうひ)》および《樹畜建議》を作成し,鷹山の言行録《翹楚編(ぎようそへん)》を撰した。…

※「莅戸太華」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

関連語をあわせて調べる

今日のキーワード

刑事免責

刑事訴訟において,自己が刑事訴追を受けるおそれがあるとして証人が証言を拒否した場合に,証言義務を負わせることと引換えにその罪についての訴追の免除の特権 (免責特権) を裁判所が与えること。アメリカ合衆...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android