莅戸太華(読み)のぞき・たいか

朝日日本歴史人物事典 「莅戸太華」の解説

莅戸太華

没年:享和3.12.25(1804.2.6)
生年享保20(1735)
江戸中期の米沢藩(山形県)重臣米沢藩の寛政改革で,大綱立案と執行に当たった。幼名孫惣,通称九郎兵衛善政,太華は号。父平八郎は病身で,寛延4(1751)年7月太華17歳のときに死去。莅戸家は代々馬廻組であったが,父が若くして亡くなったため,祖父から家督した太華は中之間詰に入り,平番総筆頭,180石を与えられた。藁科松伯の菁莪館に学び,宝暦13(1763)年,竹俣当綱,木村丈八などと共に,藩政を握る郡代頭の森平右衛門を誅殺した。明和4(1767)年8月藩主上杉鷹山の小姓,6年町奉行となる。安永1(1772)年には小姓頭に進み,奉行竹俣当綱の最もよき理解者としてこれを助け,明和・安永改革を導いた。藩校興譲館の創設には御用懸を務めている。天明2(1782)年当綱が失脚すると,翌年職を辞し,いったんは隠居したが,寛政3(1791)年1月,寛政改革の計画と執行のため,中老として再登用された。改革は太華が立案した「総紕」に基づいて実行されたが,その内容は上書箱設置,領民休養,国産奨励など47カ条にのぼるものであった。6年奉行に任ぜられ,禄1000石を与えられたが,中級家臣としては初めての出世であった。文筆にもすぐれ,好古堂と称したが,藩主鷹山の言行を記した『翹楚篇』のほか,『政語』『好古堂随筆』など多数著書を残している。<参考文献>杉原謙『莅戸太華翁』,横山昭男『上杉鷹山』

(横山昭男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「莅戸太華」の意味・わかりやすい解説

莅戸太華(のぞきたいか)
のぞきたいか
(1735―1803)

米沢(よねざわ)藩主上杉治憲(はるのり)(鷹山(ようざん))の重臣。姓は「のぞきど」とも。本名九郎兵衛善政(よしまさ)。17歳で家督を継ぎ、1767年(明和4)鷹山が藩主となり改革が始まると、仲之間組から小姓(こしょう)となり、町奉行(まちぶぎょう)、小姓頭に進み、奉行竹俣当綱(たけのまたまさつな)とともに、明和(めいわ)・安永(あんえい)の改革の指導者の1人。太華は当綱の失脚で、83年(天明3)一度職を辞し、家督(かとく)を譲ったが、91年(寛政3)望まれて中老職に抜擢(ばってき)され、やがて奉行となる。彼は、隠居中に鷹山の言行録『翹楚(ぎょうそ)編』を著し、また寛政(かんせい)の改革の大綱となった『総紕(そうひ)』47か条を作成し、その施政の中心人物となる。改革は長期にわたったが成功したことで有名。享和(きょうわ)3年12月25日没。

[横山昭男]

『横山昭男著『上杉鷹山』(1968・吉川弘文館)』


莅戸太華(のぞきどたいか)
のぞきどたいか

莅戸太華

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「莅戸太華」の解説

莅戸太華 のぞき-たいか

1735-1804* 江戸時代中期-後期の武士。
享保(きょうほう)20年生まれ。出羽(でわ)米沢藩(山形県)藩士。藩主上杉鷹山(ようざん)に登用されて中老職,ついで奉行となり,農村の復興,地場産業の振興など財政改革を推進。藩校興譲館の基礎をきずいた。享和3年12月25日死去。69歳。名は善政。通称は九郎兵衛,六郎兵衛。別号に南溟(なんめい)。著作に「翹楚(ぎょうそ)篇」「政語」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の莅戸太華の言及

【莅戸善政】より

…江戸中期の米沢藩の重臣。通称九郎兵衛。太華,好古堂と号する。17歳で家督を継ぎ,中の間組に入る。1767年(明和4)に始まる明和・安永の改革に参画し,町奉行から小姓頭(300石)となった。上杉治憲(鷹山)治下のこの改革は,天明年間(1781‐89)の中断期を経て寛政改革へ引き継がれ,善政は改革の中心人物であった。91年(寛政3)中老職となり,改革の大綱《総紕(そうひ)》および《樹畜建議》を作成し,鷹山の言行録《翹楚編(ぎようそへん)》を撰した。…

※「莅戸太華」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android