朝日日本歴史人物事典 「莅戸太華」の解説
莅戸太華
生年:享保20(1735)
江戸中期の米沢藩(山形県)重臣。米沢藩の寛政改革で,大綱の立案と執行に当たった。幼名孫惣,通称九郎兵衛善政,太華は号。父平八郎は病身で,寛延4(1751)年7月太華17歳のときに死去。莅戸家は代々馬廻組であったが,父が若くして亡くなったため,祖父から家督した太華は中之間詰に入り,平番総筆頭,180石を与えられた。藁科松伯の菁莪館に学び,宝暦13(1763)年,竹俣当綱,木村丈八などと共に,藩政を握る郡代頭の森平右衛門を誅殺した。明和4(1767)年8月藩主上杉鷹山の小姓,6年町奉行となる。安永1(1772)年には小姓頭に進み,奉行竹俣当綱の最もよき理解者としてこれを助け,明和・安永改革を導いた。藩校興譲館の創設には御用懸を務めている。天明2(1782)年当綱が失脚すると,翌年職を辞し,いったんは隠居したが,寛政3(1791)年1月,寛政改革の計画と執行のため,中老として再登用された。改革は太華が立案した「総紕」に基づいて実行されたが,その内容は上書箱設置,領民休養,国産奨励など47カ条にのぼるものであった。6年奉行に任ぜられ,禄1000石を与えられたが,中級家臣としては初めての出世であった。文筆にもすぐれ,好古堂と称したが,藩主鷹山の言行を記した『翹楚篇』のほか,『政語』『好古堂随筆』など多数の著書を残している。<参考文献>杉原謙『莅戸太華翁』,横山昭男『上杉鷹山』
(横山昭男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報