第10代米沢藩主。江戸時代の名君の一人。幼名松三郎,元服して治憲,のち鷹山(ようざん)と号した。日向高鍋藩主秋月種美の次男として江戸に生まれ,上杉重定の養嗣子となる。1767年(明和4)17歳で米沢藩主となった。治憲襲封以前の米沢藩政は動揺が激しく,宝暦年間(1751-64),森平右衛門が郡代として藩政の実権をにぎったが,新政半ばにして菁莪社中のクーデタによって暗殺され,治憲の藩主就任とともに,奉行竹俣当綱(まさつな)を中心とする藩政改革が開始された。改革は長期にわたったが,第1期は明和・安永の改革で,治憲が直接藩主の座にあった時期である。改革政策はまず大倹約令にはじまり,農村統制では副代官,廻村横目,郷村出役を設け,国産奨励として桑,コウゾ,漆の各100万本植立策を実施し,越後から縮織業を導入した。縮織はのちの米沢織の始まりである。また江戸の折衷学派の泰斗細井平洲を招き興譲館を創設した。改革は天明年間(1781-89)に入ると,大飢饉の影響もあって一時挫折し,執政竹俣当綱,小姓頭莅戸(のぞぎ)善政らは失脚し,治憲も85年2月,家督を治広に譲って隠退した。ときに35歳。訓戒書として治広に与えた〈伝国の辞〉は有名。治憲は隠殿餐霞館にあって,治広,斉定の後見役となりその後も政務を指導した。天明年間は改革が中断したが,やがて莅戸善政は中老職に登用され,第2期の寛政改革が始まる。改革は善政の構想によって進められ,とくに上書箱の設置,代官制度の改革,財政再建16ヵ年計画,また広範な国産奨励策などの実施があげられる。中でも養蚕業,織物業の発展が著しく,財政および農村復興の基盤となった。人材の登用,古い慣行の刷新と現実的な政策の採用が,改革を成功させた大きな理由とみられる。治憲の言行,業績は,莅戸善政《翹楚編》,小田切市郎《南亭余韻》がくわしい。
執筆者:横山 昭男 上杉の家督をついだとき,春日大明神に奉納した誓詞に,〈受けつぎて国のつかさの身となれば忘るまじきは民の父母〉という歌を書きつけた鷹山は,江戸時代中期の代表的な名君として,和歌山の徳川治貞,熊本の細川重賢らと並び称された。その名はすでに江戸時代後期から高く,明治時代に内村鑑三がすぐれた日本人5人を選んでその事跡を世界に紹介しようとして著した《代表的日本人》にも,卓越した封建領主として書かれている。鷹山が藩政改革に際して,率先して粗衣粗食に耐え,師の細井平洲に対して終始門弟としての礼を守ったことなどの逸話は国定教科書に掲載され,修身教育上の模範的な人物として広く知られた。
執筆者:大隅 和雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期の米沢(よねざわ)藩主。日向(ひゅうが)国(宮崎県)高鍋(たかなべ)藩主秋月種美(たねみつ)の二男として江戸に生まれる。幼名松三郎、のち直松(なおまつ)。1760年(宝暦10)出羽(でわ)国(山形県)米沢藩主上杉重定(しげさだ)の養嗣子(ようしし)となり、67年(明和4)4月、満15歳で第10代の藩主となる。元服して治憲を名のり、藩主隠退後の1802年(享和2)に鷹山(ようざん)と号した。治憲の襲封は、藩政改革の開始を意味した。当時米沢藩は極度の財政窮乏のため、領土を幕府に返上しようとする有力な議論も出ていたが、藁科松伯(わらしなしょうはく)の菁莪社(せいがしゃ)に集まった有為の人物を中心に、新藩主治憲をたてて藩政改革を断行した。改革は天明(てんめい)年間(1781~89)の中断期を挟んで、明和(めいわ)・安永(あんえい)の改革、寛政(かんせい)の改革にわたり長期に及んだ。第一次の改革は治憲が藩主として、執政竹俣当綱(たけのまたまさつな)のもとに進められ、大倹約令の実施、農村支配機構の改革、漆・桑・楮(こうぞ)各100万本の植え立て、織物技術の導入、藩校興譲館の創設など積極的な施策が実施された。倹約の実践、藩校創設の指導にあたっては、藩主自ら親しく儒者細井平洲(へいしゅう)や渋井太室(たしつ)の教えを請うている。改革が天明飢饉(ききん)その他の理由で中断したあと、85年(天明5)治憲は満33歳で藩主を隠退し、その後は新藩主治広(はるひろ)(重定の実子)の後見役となるが、ときに新藩主に与えた『伝国之辞』が有名。寛政の改革は中老莅戸善政(のぞきよしまさ)(太華(たいか))を中心に推進されたが、隠殿における治憲は女中たちに養蚕、絹織りをさせるなど、精神的、実践的にも一貫して改革を指導している。文政(ぶんせい)5年3月12日米沢で没す。
[横山昭男]
『横山昭男著『上杉鷹山』(1968・吉川弘文館)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1751.7.20~1822.3.12
江戸中期の大名。出羽国米沢藩主。弾正大弼。号は鷹山(ようざん)。父は日向国高鍋藩主秋月種美。1760年(宝暦10)米沢藩主上杉重定の養子となり,67年(明和4)家督相続。世子時代に師事した折衷学派の細井平洲(へいしゅう)を文学師範とした。69年米沢に入国。73年(安永2)藩政を牛耳っていた重臣を処罰。藩校興譲館を創設し,細井平洲を招いて藩政改革に着手。倹約を勧め,改革派の竹俣当綱(たけのまたまさつな)らに離散農民の帰村,新田開発の奨励,用水路の開削,漆・養蚕等の特産品の奨励などの農村復興政策を行わせ,一定の成果を収めた。85年(天明5)隠居して重定の四男治広に家督を譲るが,後見として藩政をみた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…1767年(明和4)に始まる明和・安永の改革に参画し,町奉行から小姓頭(300石)となった。上杉治憲(鷹山)治下のこの改革は,天明年間(1781‐89)の中断期を経て寛政改革へ引き継がれ,善政は改革の中心人物であった。91年(寛政3)中老職となり,改革の大綱《総紕(そうひ)》および《樹畜建議》を作成し,鷹山の言行録《翹楚編(ぎようそへん)》を撰した。…
…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…
…このころ,側役から郡代頭取となって権力をにぎった森平右衛門が新政を実施したが,譜代層の非難をあび,63年江戸家老の竹俣当綱(たけのまたまさつな)によって誅殺された。67年(明和4)上杉治憲(鷹山)が上杉家第10代を家督し,藩政改革を実施した。改革は明和・安永の改革,天明年間(1781‐89)の中断期および寛政の改革に分けられるが,長期にわたる。…
※「上杉治憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新