葺手町(読み)ふくでちよう

日本歴史地名大系 「葺手町」の解説

葺手町
ふくでちよう

[現在地名]盛岡市なか橋通はしどおり一丁目

内加賀野うちかがの小路の南につづく両側町で、一町半ほどの職人町。昔は屋根葺やねふき町といい(盛岡砂子)、宝暦三年(一七五三)の一枚刷御用金番付などでは吹手町とも記される。東は遠曲輪の堀に接し、西は愛染横あいぜんよこ町を経て紺屋こんや町に通じ、南はさかな町に接する。寛永城下図に屋根ふき町とみえ、町の西側に屋根葺の屋敷五軒があった。「雑書」慶安四年(一六五一)八月一六日条によれば屋根葺町を葺手町と改称、文化九年(一八一二)葺手丁となる(御家被仰出)。天明八年(一七八八)の家数三八・人数三二七(邦内郷村志)。なお「内史略」などによれば、山州北山きたやま(現京都市北区)出身の屋根葺棟梁北山葛右衛門は盛岡藩三代藩主南部重直の代に召抱えられ、安庭あにわ(現岩手郡雫石町)の枝村矢櫃やびつにて三駄二人扶持を与えられ、鳥山姓を称したという。

葺手町
ふきでちよう

[現在地名]港区虎ノ門とらのもん四丁目

西久保にしくぼ通沿い、天徳てんとく寺の西向いにある町屋。片側町で、北は石見浜田藩松平家上屋敷、西は安藤家屋敷と浜田藩松平家永預地、南は神谷かみや町に火事場見廻松平家屋敷、小田原藩大久保家下屋敷。古くは幸橋さいわいばし御門外にあり、延宝年間(一六七三―八一)の図(沿革図書)によると幸町の東、日比谷ひびや一丁目の西に町名がみえる。元禄四年(一六九一)に御用地として召上げとなり、西久保土取場に一千二三八坪余の地所を代地として与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報