日本歴史地名大系 「蔵迫村」の解説 蔵迫村くらざこむら 広島県:山県郡千代田町蔵迫村[現在地名]千代田町蔵迫舞綱(もうつな)村の東に位置し、集落は主に志路原(しじわら)川の河岸段丘上と石見浜田路沿いに展開する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳は「倉坂村」と記し、高五二二・八一三石。広島藩御覚書帖は「蔵迫村」と記す。「国郡志下調書出帳」によれば、寛永一五年(一六三八)の地詰により五二三・五二九石となる。明知・給知入交じりで、安永元年(一七七二)までの免は、上り詰五・四六三、下り詰二・九、享保一七年(一七三二)虫害凶作による秋免は〇・五七、安永二年より定免三・五九(同書出帳)。 蔵迫村くらのさこむら 宮崎県:東臼杵郡椎葉村蔵迫村[現在地名]椎葉村不土野(ふどの) 向山日当上(むかいやまひあてかみ)向山村の北、水無(みずなし)川左岸の山腹に位置する。北西の肥後国境には烏帽子(えぼし)岳(一六九一・七メートル)や五勇(ごゆう)山がそびえる。倉ノ迫とも記す。不土野掛一一ヵ村の一つで、向山組に属する。村内には小村として上ノ城(かめんじよう)村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として蔵之迫とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑一反余(高一斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の向山村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)によれば、「戸屋之平山」に焼畑六八枚・三町四反余があり、その年貢米七斗余・代銀四六匁余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by