向山村(読み)むこうやまむら

日本歴史地名大系 「向山村」の解説

向山村
むこうやまむら

[現在地名]高千穂町向山

押方おしかた村の南東にある。三田井みたい村の南、五ヶ瀬川の対岸に位置し、東は七折ななおり村・岩井川いわいがわ(現日之影町)、西はさんしよ(現五ヶ瀬町)、南は七ッ山ななつやま(現諸塚村)。高千穂一八ヵ郷の一。文明一三年(一四八一)七月五日の河内政歳外十五名連署起請文写(阿蘇文書)では、当地の住人と推定される向山惟豊・惟実・経豊・胤豊・惟満・惟幸・惟清の七名が阿蘇惟秀・惟治に忠誠を誓う起請を行っている。天正七年(一五七九)一二月二七日、当地の丸小野まるおの権現(現向山神社)の神木松が枯れたため、田尻親貞が二〇貫文を向山宣命職に寄進している(「田尻親貞寄進状」高千穂神社文書)


向山村
むかいやまむら

[現在地名]椎葉村不土野ふどの 向山日添むかいやまひぞえ尾手納おてのう

灰河内はいのかわち村の西の山腹に位置し、耳川の支流水無みずなし川の最上流域に立地する。西は肥後国と境する。南方には時雨しぐれ(一五四六メートル)がそびえる。迎山とも記す。不土野掛一一ヵ村の一つで、向山組に属する。村内には小村としててノ村・みこし村・ころ地村・今村・お川原村・くほ村があった(延享三年「村覚」那須家文書)。寛永四年(一六二七)の向山衆覚書(相良家文書)には椎葉山衆に対抗する向山衆の一人として「迎山理右衛門」の名がみえる。また明暦二年(一六五六)の椎葉山入組注進書状(同文書)には「向山前々の主取」として勘六の名がみえ、当村は対椎葉山衆の拠点であった。


向山村
むこうやまむら

[現在地名]上尾市向山

かわ村の南にある。東半はかも川に沿い、同川西岸に大宮台地指扇さしおうぎ支台が広がる。南の大谷本郷おおやほんごう村との間を川越上尾道が東西に通る。足立郡大谷おおや領に属する(風土記稿)。寛永二年(一六二五)向山村一二一石余が旗本柴田筑後守(康長)に宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿では田三九石余・畑八〇石余・山高三石余。柴田氏は当村北東に陣屋を構え、大谷領と通称される足立郡三千石を元禄一一年(一六九八)まで支配した(寛政重修諸家譜)


向山村
むこうやまむら

[現在地名]八千代町向山

上根かみね村の西と南を囲むように位置し、西南は高宮たかみや(現広島市)、西北は山県郡に接する。村名は簸川ひのかわ沿いの村々からは上根峠を越えた位置にあたることによる。「国郡志下調書出帳」には「当村名之儀は往古村と唱(中略)然る処大内義隆公毛利家と合戦有之、根之自休僧都古跡へ御出被成候時、此辺より老翁壱人御案内罷出候様被仰付候と陰徳太平記に相見、其節より下根村・上根村・向山村と相分れ候儀被相考申候」とある。


向山村
むこうやまむら

[現在地名]邑久町向山

上寺うえでら山の東麓に位置し、東は大窪おおくぼ村。寛永備前国絵図に村名がみえ、高九四三石余。「備陽記」には「山寄セ也」とあり、田畑五二町三反余、家数七五・人数五〇四。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千二七七石余で、うち八九石余が蔵入、残りが家老伊木氏ほか家臣四名の給地。反別は田四一町九反余・畑一〇町一反余、家数九一・人数三七三、牛一八、樋一二、石橋四・土橋三、池一。


向山村
むこうやまむら

[現在地名]大宮町小場おば

那珂川左岸にあり、北は福山ふくやま村と小場村。小場村から水戸への道筋が村内を通る。御用留(「大宮町史史料集」所収)に「向山、福山(忠中戸)、高野、菩提ハ往古小場村ニ有之候処」とあり、慶長七年(一六〇二)の伊奈備前守による検地で分村した。寛文三年(一六六三)開基帳(彰考館蔵)に「向山村」とみえる。「水府志料」によるとおよそ六四戸あったが、御用留に「向山の義ハ河原畠も是と申境も無之、梅沢の流を以て堺と相成居候処、万治以来江筋出来流の跡も絶候、畠境ニ相成居畠方接合」と記され、地理的理由から天保一三年(一八四二)小場村に編入された。


向山村
むかいやまむら

[現在地名]美山町大字向山

大野おおの一〇ヵ村の一。由良川上流左岸にある山間集落。川の対岸北東は小淵おぶち村、北西に樫原かしわら村、南・西・東三方は山地に囲まれる。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より丹波篠山藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高七〇・四一四石、旧高旧領取調帳では一〇五・九四六石。


向山村
むかいやまむら

[現在地名]大塔村向山

北は下川下しもがわしも村、南は竹野平たけのだいら村、東は大谷おおたに村、西は深谷ふかたに村。集落は南に向かって蛇行する日置ひき川の西部山腹の緩斜面に散在する。「続風土記」に「古は村の東南川を隔て栃カ窪といふ所に村ありしに、小名向山の方土地宜きを視てこゝに移るといふ、今猶栃カ窪村居の跡あり、向山の名は栃窪に居るとき呼ひし名なり」と記される。慶長検地高目録によると村高二二石余、小物成一・三七六石。


向山村
むこうやまむら

[現在地名]福井市千合ちごう

大味おおみ川中流域左岸の山腹に位置し、対岸北東方の山腹に国山くにやま村がある。慶長八年(一六〇三)の結城秀康寄進状写(千合区有文書)に村名がみえる。江戸時代を通じて福井藩領。正保郷帳によれば田方三七石余・畠方五石余。村高四二石余のうち三〇石が福井城下愛宕山松玄院遊楽ゆうらく寺領。


向山村
むこうやまむら

[現在地名]那珂町向山

岩城相馬いわきそうま街道が村の東端を通り、北は額田ぬかだ村。元禄郷帳に「向山村」とみえ、「水府志料」によると戸数およそ四四、「其地多く茶を産す」とある。寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)によると、村内の庫蔵こぞう院は真言宗に属し、稲田いなだ(現勝田市)東聖とうしよう寺門徒であった。


向山村
むかいやまむら

[現在地名]金沢市加賀朝日町かがあさひまち

朝日村の南西に位置。切山きりやま城は向山砦とも称し、当村域にあり、南西を小原おはら越が通るとする説があるが(「加賀志徴」など)、未詳。正保郷帳によれば高二〇石余、田方五反余・畑方八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二三石、免は六ツ、小物成ま山役二四匁・野役二匁(三箇国高物成帳)


向山村
むこうやまむら

[現在地名]水上町向山

綱子つなご村の利根川対岸に位置。寛文郷帳では高九石余(畑方のみ)、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高四四石余。宝永元年(一七〇四)沼田領村々石高書上では高三石余、反別は田方三町余・畑方一町七反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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