薗部庄
そのべのしよう
現和歌山市園部・善明寺・大谷・平井・栄谷・中(貴志中)・梅原・向・中野・土入などの地に比定される。東は六十谷庄、西は木本庄と対し、北は葛城(和泉)山脈、南は国衙領楠見村と接して半月形の荘域をなす。荘内を東西に南海道(のちの淡島街道)が通り、南北には和泉国に至る孝子越の街道が通ずる要衝の地である。
園部を中心とする地域は古代の
部郷(和名抄)の地で、早くから開けた地であった。平安時代の末期には、領家は明らかではないが、すでに荘園となっていた。天養二年(一一四五)三月二八日付大伝法院陳状案(根来要書)は、日前国懸神宮が諸役を高野山大伝法院領に課した際、大伝法院側がそれに反論したものであるが、そのなかで当庄が同院領山東庄とともに八講頭役を勤仕せず、日前宮の訴えによって当庄下司国盛が追放され、結局社役に服したことが記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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