保田庄(読み)やすだのしよう

日本歴史地名大系 「保田庄」の解説

保田庄
やすだのしよう

安田とも書く。有田川下流の氾濫原や山裾山田原やまだはら星尾ほしお辻堂つじどう辺りにあった荘園。久安四年(一一四八)一〇月日付の伊太曾神社神楽免田注文(伊太曾神社文書)に「金峯山御領(中略)保田庄弐町」とあるのが初見。ただしこの文書は原本ではない。次いで建暦三年(一二一三)二月日付の慈鎮所領譲状案(「華頂要略」所収)に山門系の山城常寿院領として荘名のみ所見。さらに建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)には、請所の中に冷泉宮領として所見。次に述べる地頭保田氏の請所となっていたものとみられる。この間の伝領関係などは未詳。近衛家領としても、以後史料はなさそうである。荘域・面積なども不明であるが、東は糸我いとが庄・宮原みやはら庄と境を接していたこと、したがって有田川の南北両岸にわたっていたことが推測される。

当庄の歴史で注目されるのは、鎌倉時代湯浅党の有力者保田氏の本拠であったこと、また湯浅氏の出である明恵が一時期修行して、その旧跡に星尾寺(現神光寺)が創建されたことである。保田氏の祖宗光は湯浅宗重の七男。


保田庄
やすだのしよう

建暦三年(一二一三)二月日の慈鎮所領譲状案(華頂要略)に延暦寺常寿じようじゆ院領として「保田庄」がみえ、青蓮院門跡慈鎮(慈円)から朝仁親王(後鳥羽上皇の子道覚)へ譲られた同門跡領のうちの一所。天福二年(一二三四)八月の慈源所領注文写(同書)によれば当庄の所当(年貢)は一二〇石、うち六〇石は三昧僧、残りは執行に配分されていた。観応二年(一三五一)の勤行記録(門葉記)でも同様に、所当一二〇石は常寿院法華堂の禅家六口供料と執行得分に充てられている。貞和二年(一三四六)には本所一円進止の職である常寿院門跡領保田庄公文職を与えられた金寿丸とその父源覚は、年貢・公事などを規定どおりに納入することを誓っている(同年二月一八日「源覚金寿丸連署請文写」華頂要略)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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