藤井較一(読み)フジイ コウイチ

20世紀日本人名事典 「藤井較一」の解説

藤井 較一
フジイ コウイチ

明治・大正期の海軍大将



生年
安政5年8月18日(1858年)

没年
大正15(1926)年7月8日

出生地
備前国赤坂郡坂部村(岡山県赤坂町)

学歴〔年〕
海兵〔明治13年〕卒

経歴
岡山藩士の長男として生まれる。明治24年ロシアのニコライ皇太子来日に際して、接伴皇族の有栖川宮威仁親王付武官として大津事件に遭遇。天皇の行幸を請う電文を起草するなど事後処理にあたった。日露戦争では第二艦隊参謀長を務め、旅順港口への機雷敷設を進言して敵艦隊旗艦の撃沈に成功した他、日本海海戦に際しては島村速雄第二艦隊司令長官と共にバルチック艦隊の対馬海峡通過を説き、海戦勝利に貢献した。40年第一艦隊司令長官、42年軍令部次長、大正3年佐世保鎮守府長官、4年横須賀鎮守府長官などを歴任。5年大将に昇進

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「藤井較一」の解説

藤井較一

没年:大正15.7.8(1926)
生年:安政5.8.18(1858.9.24)
明治大正期の海軍軍人。岡山藩士藤井広の長男。明治13(1880)年海軍兵学校卒業。24年ロシアのニコライ皇太子来日の際,接伴皇族有栖川宮威仁親王付武官として大津事件に遭遇,天皇の行幸を請う電文を起案するなど善後処理に努めた。日露戦争(1904~05)には,「吾妻艦長,のち第2艦隊参謀長として出征。旅順港口に機雷の沈置を進言して,マカロフ提督が乗る戦艦「ペトロパブロフスク」を撃沈,ロシアの旅順艦隊に打撃を与えた。さらに東郷平八郎連合艦隊司令長官統裁の会議で,バルチック艦隊の対馬海峡通過を理をもって論じ,島村速雄第2艦隊司令官と共に,大勢であった北方迂回論を制した。この予測が的中,日本海海戦を勝利に導く。戦後,海軍軍令部次長,佐世保,横須賀各鎮守府司令長官などを歴任。大正5(1916)年軍事参議官となり海軍大将に進んだ。遺言により爵位謹辞。<参考文献>藤井秀雄『先考海軍大将藤井較一事跡』,没後六十周年記念誌刊行会『藤井大将を偲ぶ』

(岸本昌也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤井較一」の解説

藤井較一 ふじい-こういち

1858-1926 明治-大正時代軍人
安政5年8月18日生まれ。日露戦争で第二艦隊参謀長をつとめ,対馬海峡でのバルチック艦隊迎撃を主張して日本海海戦を勝利にみちびく。のち第一艦隊司令長官,横須賀鎮守府司令長官などをつとめ,大正5年海軍大将。大正15年7月9日死去。69歳。備前(岡山県)出身。海軍兵学校卒。名は「かくいち」ともよむ。

藤井較一 ふじい-かくいち

ふじい-こういち

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「藤井較一」の解説

藤井 較一 (ふじい こういち)

生年月日:1858年8月18日
明治時代;大正時代の海軍軍人。大将;軍事参議官
1926年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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