朝日日本歴史人物事典 「藤原在衡」の解説
藤原在衡
生年:寛平4(892)
平安中期の公卿。大僧都如無と良峰高見の娘の子。中納言山陰の孫。伯父藤原有頼の養子となる。粟田左大臣,万里小路大臣と称される。天徳4(960)年,中納言から大納言に昇進した翌9月,遷都後はじめて炎上した内裏の再建のため造宮別当として工事に当たり,その功で翌年従二位。安和2(969)年3月13日,在衡が粟田山荘で催した尚歯会(敬老会)は,参会者の毛髪の色で座次を決めるなど盛会をきわめたといい,そのときの詩を『本朝文粋』に収める。いわゆる安和の変が発覚する12日前のことである。この変後右大臣となり,さらに翌年左大臣に任じられ,家格の上では菅原道真以来の幸運を得た。これについては『古事談』に,若い時分の文章生時代,鞍馬寺に参籠して右大臣となる霊夢を見たというエピソードを伝える。出家したその日に死去。従一位を追贈。
(瀧浪貞子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報