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源高明 みなもとのたかあきら

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

源高明
みなもとのたかあきら

[生]延喜14(914).京都
[没]天元5(982).12.16. 京都
平安時代中期の貴族。正二位。西宮殿などと呼ばれた。醍醐天皇の第 10皇子。母は源唱の娘周子。源姓を与えられて臣籍に下り,天慶2 (939) 年参議,天暦1 (947) 年権中納言,同2年中納言,同7年大納言,康保3 (966) 年右大臣,同4年左大臣と累進したが,安和2 (969) 年いわゆる安和の変に座して失脚し,大宰権帥として筑紫に流された。天禄2 (971) 年許されて同3年帰京し,天延2 (974) 年には封 300戸を与えられた。学問を好み,朝儀典故に詳しく,著書に『西宮記』がある。為平親王妃,藤原道長室は娘である。

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百科事典マイペディアの解説

源高明【みなもとのたかあきら】

平安中期の公卿(くぎょう)。醍醐天皇の皇子。西宮(にしのみや)左大臣とも。920年臣籍に下り,源氏の姓を与えられた。藤原師輔(もろすけ)の娘をめとり,自らの娘が村上天皇の皇子為平(ためひら)親王の妃となったため藤原氏から警戒され,969年安和(あんな)の変により筑紫(つくし)に流された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

源高明 みなもとの-たかあきら

914-983* 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
延喜(えんぎ)14年生まれ。醍醐(だいご)天皇の皇子。母は源周子醍醐源氏の祖。臣籍にはいり,天慶(てんぎょう)2年(939)参議。のち正二位,左大臣にすすむが,安和(あんな)2年(969)藤原氏の策謀により失脚(安和の変)。悲劇の主人公として光源氏のモデルとする説もある。西宮左大臣とよばれる。天元5年12月16日死去。69歳。著作に「西宮記(せいきゅうき)」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

源高明

没年:天元5.12.16(983.1.2)
生年:延喜14(914)
平安中期の公卿。西宮左大臣と称す。醍醐天皇皇子で母は更衣の源周子。延喜20(920)年源姓を賜り,臣籍に降下。天慶2(939)年,26歳で参議となる。天暦7(953)年大納言に進み,在任中,義弟村上天皇の女御であった藤原安子(妻の姉妹)の立后で中宮大夫となったほか検非違使別当,左大将などを兼務した。右大臣を経て康保4(967)年左大臣となる。2年後,女婿の為平親王(村上天皇第4皇子)が兄冷泉天皇の東宮になることができず,弟の守平親王(のち円融天皇)がなった失望から謀反を企てたとの理由で大宰府(太宰府市)の名目上の副長官に左遷された(安和の変)。これについては,賜姓源氏に脅威を感じた藤原氏による他氏排斥事件とする見方が有力。この左遷をめぐり占いで凶相が出たとか悪霊に出あった結果といった話が説話類にみえる。4年後に許されて帰京し封300戸を賜った。平安京右京にあった豪壮な西宮殿は高明の左遷直後に焼失した。慶滋保胤は,『池亭記』でこの右京衰退の様子を記している。学問を好み朝儀に明るく,平安初期の代表的な有職故実書である『西宮記』を著した。歌集『西宮左大臣御集』を残し,勅撰集に20首近い歌がとられている。琵琶の名手であり,秘曲を伝え,楽所別当となったこともある。『源氏物語』の主人公光源氏のモデルのひとりと考えられている。娘の明子は藤原道長の妻。後世,託宣により従一位を追贈された。<参考文献>青木和夫「源高明」(川崎庸之編『王朝の落日』),山中裕『平安時代の古記録と貴族文化』

(朧谷寿)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

みなもとのたかあきら【源高明】

914‐982(延喜14‐天元5)
平安中期の公卿。西宮左大臣と称せられる。醍醐天皇皇子,母源唱女更衣周子。920年(延喜20)源氏賜姓。929年(延長7)元服,翌年従四位上で出身。939年(天慶2)参議となり,累進して冷泉天皇の968年(安和1)左大臣に昇ったが,翌年安和(あんな)の変により失脚,大宰員外帥として配流された。右京四条の彼の広大な西宮第は配流後炎上するが,この邸のことは慶滋保胤の《池亭記》にも記されている。972年(天禄3)帰京,封戸も賜ったが政界には復帰しなかった。

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大辞林 第三版の解説

みなもとのたかあきら【源高明】

914~982) 平安中期の廷臣・学者。醍醐天皇の皇子。西宮左大臣・西宮殿と称される。安和あんなの変に連座、大宰権帥に左遷される。朝儀に通じ、有職故実書「西宮記」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

源高明
みなもとのたかあきら
(914―982)

平安中期の公卿(くぎょう)。西宮(にしのみや)左大臣と称す。醍醐(だいご)天皇の皇子で母は源周子(ちかこ)。920年(延喜20)に源姓を賜り臣籍に降(くだ)った。26歳で参議となり、累進して966年(康保3)に右大臣、翌年左大臣に進んだ。その間、高明はときの権力者藤原師輔(もろすけ)の女(むすめ)を妻としており、その姉の安子が村上(むらかみ)天皇(高明の義弟)の中宮(ちゅうぐう)となるや中宮大夫(だいぶ)を兼ねるなど天皇とも関係が深かった。さらに村上天皇の第二皇子為平(ためひら)親王(安子所生)に女を入れ、将来に期待した。しかし師輔、安子の死によって為平の立太子実現は夢と消え、その弟の守平親王(円融(えんゆう)天皇)がたった。その後、高明は為平の擁立に画策したという事件(安和(あんな)の変)によって大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され政界から追われた。この変は藤原氏による他氏排斥の最後の陰謀と評価されている。2年後には許されて帰京したが志を得ることはなかった。西宮(にしのみや)とよばれた彼の邸宅は四条北で朱雀(すざく)大路の西にあったが、『池亭記(ちていき)』の作者慶滋保胤(よししげのやすたね)は右京の荒廃の例として西宮第(にしのみやてい)をあげている。高明は朝儀典礼に精通しており、彼の著した『西宮記(さいぐうき)』は平安時代の公事(くじ)典礼を知るうえで貴重である。天元(てんげん)5年12月16日薨去(こうきょ)[朧谷 寿]

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世界大百科事典内の源高明の言及

【安和の変】より

…平安中期の政変。969年(安和2)3月,源満仲らの密告により,橘繁延,僧蓮茂らが謀反の疑いで逮捕・尋問されたが,罪は醍醐天皇の子で,儀式に精通し,朝廷に重きをなしていた左大臣源高明に及び,彼は大宰員外帥に左遷,繁延らは流罪,与党の源連は追捕され,また武士の藤原千晴(秀郷の子)らも捕らえられて流された。一方,右大臣藤原師尹が左大臣,大納言藤原在衡が右大臣に昇任した。…

【西宮記】より

…〈さいぐうき〉とも読む。撰者は源高明(みなもとのたかあきら)。高明は914年(延喜14)醍醐天皇の皇子として生まれ,臣籍に下って源姓となり正二位左大臣に昇るが,969年(安和2)の安和の変により失脚,982年(天元5)に没した。…

※「源高明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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