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藤原常嗣 ふじわらの つねつぐ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原常嗣 ふじわらの-つねつぐ

796-840 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
延暦(えんりゃく)15年生まれ。北家藤原葛野麻呂(かどのまろ)の子。母は菅野池成の娘浄子。天長8年(831)参議。右大弁を兼任して「令義解(りょうのぎげ)」編集にくわわる。承和(じょうわ)5年遣唐(けんとう)大使として入唐(にっとう),翌年帰国して従三位にのぼる。渡航の苦難などは同行した円仁の「入唐求法巡礼行記」にくわしい。承和7年4月23日死去。45歳。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原常嗣

没年:承和7.4.23(840.5.27)
生年:延暦15(796)
平安前期の公卿。中納言葛野麻呂と菅野池成の娘浄子の子。承和1(834)年遣唐大使に任じられ,父子2代にわたる大使任命は「唯一門のみ」と評された。同5年,3度目の出発でようやく入唐を果たしている。渡航に当たり,乗船(第1船)が破損したため,副使小野篁 の第2船を要求して対立し,篁の渡航拒否を招いたことは有名だが,これも常嗣の矜持の然らしむるところであったか。同行した円仁の『入唐求法巡礼行記』によれば,渡航は悲惨をきわめ,遭難しかけた折には大使以下みな裸になり褌で体をくくって船中を逃げ回ったといい,常嗣は中国に着くや脆弱な日本船を破棄し,帰国用に新羅船を購入している。これがわが国最後の遣唐船となった。『経国集』に詩を収める。『令義解』の編纂にも携わった。

(瀧浪貞子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのつねつぐ【藤原常嗣】

796‐840(延暦15‐承和7)
平安前期の廷臣で,入唐した最後の遣唐大使。葛野麻呂の七男。若くして大学に学び,《文選》を暗誦するなど古典に通じる。823年(弘仁14)従五位下に叙され,830年(天長7)公事に座して左遷されたが,まもなく参議,右大弁となり,834年(承和1)に遣唐大使に任ぜられた。836年夏に出帆したが,風のため肥前国に押し戻され,帰京する。翌年再度出航するが壱岐島に漂着して再び失敗,翌838年夏,やっと渡唐に成功した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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世界大百科事典内の藤原常嗣の言及

【小野篁】より

…同年東宮学士,弾正少弼となり,834年遣唐副使に任命されたが,翌々年進発した遣唐船は難破して渡航に失敗,さらに翌年の渡航も失敗した。838年の3度目の渡唐に際して,篁は大使藤原常嗣の専横に抗議し,病と称して出航を拒み《西道謡(さいどうよう)》という詩を作って風刺したため嵯峨上皇の怒りに触れ,隠岐国に配流された。この道中に制作した《謫行吟(たつこうぎん)》七言十韻は時人を感動させたが,《西道謡》とともに今は伝存しない。…

【遣唐使】より

… 894年(寛平6)菅原道真は上表して唐国が衰微していることおよび途中の危険なことを理由として遣唐使をやめるよう請うて許され,その後再び遣唐使が任命されることはなかった。入唐した最後の遣唐使は834年(承和1)の藤原常嗣らである。平安時代に入ってから新羅の商人の日本に来航するものがあらわれ始め,ついで唐の商人も来航するようになった。…

※「藤原常嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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