平安時代の漢詩人,歌人。野宰相,野相公などと称される。岑守(みねもり)の子。岑守は《内裏式》《凌雲集》などの撰者として高名だが,その子篁は若年のころ弓馬に熱中して学問を顧みなかったため嵯峨天皇を嘆かせた。これによって一念発起した篁は学業に精励し,822年(弘仁13)文章生の試験に及第し,以後巡察弾正,弾正少忠,大内記,蔵人,式部少丞,大宰少弐等を歴任,833年右大臣清原夏野らとともに撰述した《令義解(りようのぎげ)》の序文を書いた。同年東宮学士,弾正少弼となり,834年遣唐副使に任命されたが,翌々年進発した遣唐船は難破して渡航に失敗,さらに翌年の渡航も失敗した。838年の3度目の渡唐に際して,篁は大使藤原常嗣の専横に抗議し,病と称して出航を拒み《西道謡(さいどうよう)》という詩を作って風刺したため嵯峨上皇の怒りに触れ,隠岐国に配流された。この道中に制作した《謫行吟(たつこうぎん)》七言十韻は時人を感動させたが,《西道謡》とともに今は伝存しない。《小倉百人一首》の〈わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣舟〉の歌はこの時の詠である。840年京に召還され,翌年本位に復し,刑部大輔,陸奥守,東宮学士,蔵人頭,左中弁等を経て847年参議に昇進し弾正大弼を兼ねた。852年に左大弁となり同年病没した。《文徳実録》の篁卒伝に〈当時文章天下無双〉と述べられ,《三代実録》に〈詩家ノ宗匠〉と称された篁には《野相公集》5巻が存在したというが現存せず,その作は《経国集》に2首,《扶桑集》に4首,《本朝文粋》に4編,《和漢朗詠集》に11首,《新撰朗詠集》に3首,《今鏡》《河海抄(かかいしよう)》にそれぞれ1首を伝えるにすぎない。和歌は《古今集》に6首入集。なお《新古今集》以下の6首は後人の作たる《篁物語》よりの撰入ゆえ篁の実作とは考えがたい。篁は多情多感な博識の英才で自恃(じじ)するところ高く,直情径行,世俗に妥協せぬ反骨の士であり,野狂の異名がある。その奇才に因由する数々の話柄が《江談抄》《俊頼口伝》《今昔物語集》《宇治拾遺物語》等に伝えられている。唐の白楽天と詩境を同じくする才幹であることを称揚する説話は篁を9世紀の漢風謳歌時代を代表する詩人として理想化する伝承だが,その他隠岐配流事件をめぐる和歌説話,篁を冥官とする蘇生説話などがある。なお異母妹との恋愛談や大臣の娘への求婚談から成る《篁物語》は虚構であり,その成立時期については,諸説があるが,平安中期から鎌倉初期までの間と推定される。
執筆者:秋山 虔
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平安前期の漢詩人、歌人。小野妹子(いもこ)の子孫で、父は『凌雲(りょううん)集』の撰者(せんじゃ)小野岑守(みねもり)。一族に書家道風(とうふう)や武人好古(よしふる)がいる。参議に任ぜられて、野宰相(やさいしょう)、野相公(やしょうこう)などとよばれた。多感、俊才、あるとき嵯峨(さが)天皇が『白氏文集(はくしもんじゅう)』の一節を一部変えて示したところ、白楽天のもとの詩にまったく同じように改めたとか、「子」の字を12並べたのを、「猫の子の子猫、獅子(しし)の子の子獅子」と読んで頓才(とんさい)を示したとか、詩のすばらしさから、大臣藤原三守(みもり)の婿になれたとか、その才人ぶりは、説話化されてではあるが、『宇治拾遺物語』『十訓抄(じっきんしょう)』『江談抄(ごうだんしょう)』などにさまざまな形で伝えられている。自らをたのむところもまた強かったらしく、838年(承和5)の遣唐使派遣の際には、トラブルを起こして乗船を拒否し、ために隠岐(おき)国(島根県)配流という憂き目にもあっている。現存している作品はきわめて数が少ない。わずかに『経国(けいこく)集』以下に詩文が、『古今和歌集』以下に和歌が残されているにすぎず、大部分は散逸したようである。なお家集として『小野篁集』があるが、これは『篁物語』『篁日記』などともよばれており、実は篁説話を素材とした後人の手になる作品と考えられる。
わたの原八十(やそ)島かけて漕(こ)ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟
[久保木哲夫]
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(瀧浪貞子)
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802~852.12.22
平安初期の公卿。岑守(みねもり)の子。最高官位にちなみ野宰相(やさいしょう)・野相公(やしょうこう)と称される。822年(弘仁13)文章生(もんじょうしょう),833年(天長10)東宮学士をへて834年(承和元)に遣唐副使に任命される。しかし2度の難航,大使藤原常嗣(つねつぐ)との不和のため,3度目の出航に乗船を拒否,嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐国へ配流された。840年帰京が許され,847年参議となる。「経国集」「和漢朗詠集」などに漢詩を,「古今集」「小野篁集」(後世の偽作も多い)などに和歌を残し,文人としても名高い。
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…物語。《篁日記》《小野篁集》ともいう。成立時期については平安前期・中期・末期,鎌倉初期など諸説があって一定しない。…
…山号は大椿山。創建については慶俊(きようしゆん)僧都の開基,また小野篁(たかむら)の開創,宝皇寺の後身といわれて異説に富む。だが,寺地が葬送所として有名な鳥辺(とりべ)山のふもとにあることから,中世以来,当寺は冥府とこの世の出入口に当たると信じられ,亡者の精霊迎えの信仰で栄え,〈六道(ろくどう)さん〉〈六道珍皇寺〉の名で親しまれた。…
…翌年再度出航するが壱岐島に漂着して再び失敗,翌838年夏,やっと渡唐に成功した。この間,副使の小野篁(おののたかむら)は大使の船が不備なため副使の船と換えられたことを不満とし,病と称して出発せず,遠流に処された。839年8月新羅船に乗って大宰府に帰着し,9月に天皇から功を賞されて従三位に進められたが,半年後に没した。…
※「小野篁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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