朝日日本歴史人物事典 「藤原敦光」の解説
藤原敦光
生年:康平6(1063)
平安後期の文人貴族。文章博士藤原明衡と安房守平実重の娘の子。幼時に父を亡くし,兄敦基の養子となる。家学の文章道を修め,対策(文章得業生の試験)及第後,大内記,文章博士,大学頭,式部大輔と儒官としての任官を経る。堀河・鳥羽・崇徳の3代の天皇の侍読を勤め,天永の記録荘園券契所の寄人ともなる。しかし参議への昇進はついにかなわず,終生の失意の因となる。当代随一の文章家で,その手になる詔勅・任官申文・勘文・漢詩の類は膨大な数にのぼる。その内のいくつかは『本朝文粋』に所収されており,保延1(1135)年の疫病流行時に提出した徳政勘文は特に著名。著書に『続本朝秀句』『本朝帝紀』があるが,現在は散逸。浄土信仰に厚く,『三教指帰』の注釈書『三教指帰勘注抄』を著す。
(上杉和彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報