藤原明衡(読み)フジワラノアキヒラ

デジタル大辞泉 「藤原明衡」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐あきひら〔ふぢはら‐〕【藤原明衡】

[989~1066]平安中期の学者。文章博士もんじょうはかせ大学頭だいがくのかみを歴任。詩文に秀で、「本朝文粋」を編集。著「明衡往来めいごうおうらい」「新猿楽記」など。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原明衡」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐あきひら【藤原明衡】

  1. 平安後期の漢学者敦信の子。文章博士東宮学士大学頭などを歴任して従四位下に至る。「本朝文粋」「明衡往来」「本朝秀句」(佚)などを編纂し、「新猿楽記」を著した。詩文は「本朝続文粋」「本朝無題詩」などに見える。治暦二年(一〇六六)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原明衡」の意味・わかりやすい解説

藤原明衡 (ふじわらのあきひら)
生没年:989-1066(永祚1-治暦2)

平安中期の漢文学者,受領階級の文人。藤原四家のうちの式家宇合(うまかい)の後裔。父の敦信は,道長の子頼通の侍講をつとめた文章博士。母は良岑英材の娘,また子の敦基,敦光はともに文章博士となる。明衡は父の業を継ぎ漢学に精通し,和歌にも堪能であった。1004年(寛弘1)16歳で文章院に入学,14年(長和3)26歳で文章得業生となる。しかし累代の儒家でなく,官位も遅々として進まなかった。40歳代の長元年間(1028-37)に官吏登用試験の対策に及第した。この下積みの文人の時期に明衡は二つの事件を起こした。一つは,1034年(長元7)46歳のとき,式部省内の試験で受験生に室外から答えを教えたこと,もう一つは,41年(長久2)文章生の試験に及第できなかった学生に不服を申し立てさせたが,その奏状(申文)を実は明衡が作っていたということである。後冷泉天皇時代に式部少輔,左衛門尉などを歴任するが,58年(康平1)70歳でまだ式部少輔という卑位にとどまっている。その後,大学頭を経て,60年には文章博士,東宮学士を兼ねた。明衡は当時第一流の才能の持ち主であるにもかかわらず,官位においては不遇であった。位一階の昇進を願って何度も上申した奏状も残っている(《本朝続文粋》巻六)。不遇のままで80歳近い生涯をとじた明衡の代表的な業績は,《本朝文粋》14巻の編纂にある。これは嵯峨朝から後一条朝までの17代200余年間の名家の文章を《文選》の体式にならって撰したものであり,平安朝漢文学の珠玉選である。書簡の模範文集として,中国の書儀にならった《明衡往来(めいごうおうらい)》(《雲州消息》とも)があり,いわゆる往来物のはじめとして,後世に多大な影響を与えた。平安朝社会の上下の職人尽(づくし)ともいうべく,また風刺文学一面をもつ《新猿楽記》はことに彼の面目を反映する注意すべき作品。その他《本朝秀句》(散逸)もある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原明衡」の意味・わかりやすい解説

藤原明衡
ふじわらのあきひら
(989?―1066)

平安後期の漢詩人。山城守敦信(やましろのかみあつのぶ)の子で15歳ごろに文章院(もんじょういん)に入学したが、対策(官吏登用のための最高試験)に及第したのは40歳を過ぎていた。それからまもなく大学の入学試験に際し二度も不祥事件を引き起こしている。彼は公卿(くぎょう)に頼まれて文章を書き、詩宴で多くの詩を賦したが、官位は停滞して卑官に甘んじ、晩年ようやく文章博士や大学頭になることができた。その子に敦基(あつもと)・敦光(あつみつ)の秀才が現れ、その子孫は院政期の学界に君臨した。作品は『本朝続文粋(もんずい)』や『本朝無題詩』などに収められているが、長年の沈淪(ちんりん)した境遇からわが身を嘆く暗い色調の詩文が多い。彼のもっとも大きな功績は平安時代の名文を集めて『本朝文粋』を編纂(へんさん)し、秀句を集めて『本朝秀句』(散逸)をつくり、わが国最初の書簡文集『明衡往来(めいごうおうらい)』を編し、都の庶民生活を取り上げて『新猿楽記(しんさるがくき)』を書いたことで、その卓越した才能と儒家出身でない自由な精神がもたらしたものといえる。

[大曽根章介]

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朝日日本歴史人物事典 「藤原明衡」の解説

藤原明衡

没年:治暦2.10.18(1066.11.8)
生年:生年不詳
平安中期の学者,漢詩人。文章博士敦信の子。寛弘1(1004)年大学に入学するが,学閥の壁に阻まれて不遇をかこち,ようやく長元5(1032)年対策に及第し,左衛門権少尉の官に就く。その後出雲守,式部少輔などを歴任したが,官人としても恵まれず,康平1(1058)年70歳でなお五位にとどまる境遇を嘆いている。同5年文章博士となり,次いで東宮学士,大学頭を兼ね,晩年に至ってようやく学者としての顕職を得て従四位下に至る。治暦2(1066)年,老齢と病気によって辞職し,没する。子の敦光,敦基が文章博士となり,院政期に学問の家としての藤原式家を確立した。後冷泉朝の文人の第一人者として年号や皇子の名の選進,表や願文の制作,作文会での詩作に活躍した。その詩文は『本朝続文粋』『本朝無題詩』ほかに100首に近い作が残るが,最大の業績は『本朝文粋』の編纂である。平安朝の文章の精粋432首を全14巻に収めるアンソロジーの編者として不朽の名を残した。また書簡の模範文例を集めた『明衡往来』(『雲州消息』とも)は往来物の先駆をなす。さらに当時流行した猿楽と見物の人びとの描写を通して時代を活写した『新猿楽記』がある。伝統の継承者として活躍するとともに新しい時代の胎動を的確に捉えた作品を書き,独自の位置を占めた。<参考文献>大曾根章介「藤原明衡論」(『国語と国文学』35巻3号),三保忠夫「藤原明衡略年譜」(『島大国文』14号)

(後藤昭雄)

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百科事典マイペディア 「藤原明衡」の意味・わかりやすい解説

藤原明衡【ふじわらのあきひら】

平安中期の学者。〈ふじわらのめいごう〉とも。藤原四家のうちの式家の後裔で,文章道における藤原式家の祖。文章博士,大学頭。博学で知られ,詩壇に活躍し,和歌もよくしたが,官位においては不遇のまま終わった。しかし,先人の文章を編纂(へんさん)した《本朝文粋》は平安朝漢文学の粋であり,日本最初の書簡文集《明衡往来》は〈往来物〉のはじまりとして後世に大きな影響を与えている。また《新猿楽記》は,当時の都市京都と多様な人々を描き,注目すべき作品となっている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原明衡」の意味・わかりやすい解説

藤原明衡
ふじわらのあきひら

[生]永祚1(989)
[没]治暦2(1066).10.18.
平安時代中期の学者,漢詩人。山城守敦信の子で,長く紀伝道を学び,その学識才能を自負していたが,儒家の出身でないため不遇であった。のちに出雲守や東宮学士,文章博士,大学頭などに任じられ,後冷泉天皇の頃の碩学として文壇に君臨した。『本朝文粋』を編纂し,詩賦の秀句を選んで『本朝秀句』をつくった。日本で最初に書簡文を集めて『明衡 (めいこう) 往来』をつくり,当時流行した猿楽の実態について『新猿楽記』を書いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原明衡」の解説

藤原明衡 ふじわらの-あきひら

989-1066 平安時代中期の官吏,漢詩人。
永祚(えいそ)元年生まれ。藤原敦信(あつのぶ)の子。四十余歳でようやく対策(官吏登用試験)に及第,晩年に文章博士(もんじょうはかせ),大学頭(かみ)となった。従四位下。後冷泉(ごれいぜい)朝の代表的文人で,「本朝文粋(もんずい)」の編者。書簡文集「明衡(めいごう)往来」,風俗集「新猿楽記」など異色の著作をのこした。治暦(じりゃく)2年10月18日死去。78歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原明衡」の解説

藤原明衡
ふじわらのあきひら

?~1066.10.18

平安中期の儒者・文人。式家。字は耆莱(きらい)あるいは安蘭(あんらん)。儒家出身でないため対策に及第するのに年月を要したが,後冷泉朝で文章(もんじょう)博士・東宮学士・大学頭などを歴任し,従四位下に至った。当代一流の学者で,「本朝文粋(もんずい)」「本朝秀句」を編み,「新猿楽記」「明衡(めいごう)往来」を著した。作品は「本朝続文粋」「本朝無題詩」に収める。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原明衡」の解説

藤原明衡
ふじわらのあきひら

?〜1066
平安中期の学者
文章博士 (もんじようはかせ) ・大学頭などを歴任。博学で知られ,『本朝文粋』『明衡往来 (めいこうおうらい) 』『新猿楽記』の編者。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原明衡の言及

【漢詩文】より

…しかし文学の主流は大江匡房の《続本朝往生伝》に見られるごとく漢文学で,大江維時撰の《千載佳句》,紀斉名(ただな)撰の《扶桑集》,高階積善撰の《本朝麗藻》,大江匡衡の《江吏部集》,藤原公任撰の《和漢朗詠集》などが今日に伝えられ生彩を放つ。藤原明衡編の《本朝文粋》はこの期の作品を多く収めていて,珍重すべき漢詩文芸の宝庫である。このころになると,有力な詩人たちの層も下級貴族層に移り,漢詩文を支えてきた儒学者たちは大江氏,菅原氏を中心に門閥を形成するようになる。…

【新猿楽記】より

…平安後期の漢文体記類作品。藤原明衡(あきひら)の著。1052年(永承7)前後の成立と考えられる。…

【本朝文粋】より

…詩中心の総集《扶桑集》(紀斉名(ただな)撰)に対して,日本最初の文中心の総集。編者は藤原明衡(あきひら)。1058年(康平1)ごろの成立か。…

【明衡往来】より

…3巻。平安時代の漢文学者藤原明衡(あきひら)の著。明衡が出雲守であったので《雲州消息》《雲州往来》などともよばれる。…

※「藤原明衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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