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覚鑁 かくばん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

覚鑁
かくばん

[生]? 肥前
[没]康治2(1143).紀州
平安時代の僧。新義真言宗の開祖。諡 (おくりな) は興教大師。 13歳のとき仁和寺で剃髪得度し,奈良で法相の奥義を学び,高野山に登って密印を受け,三井の覚猷 (かくゆう) や醍醐の賢海などから秘訣を授けられた。

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デジタル大辞泉の解説

かくばん【覚鑁】

[1095~1143]平安後期の真言宗の僧。肥前の人。新義真言宗の開祖。また、伝法院流の祖。諡号(しごう)は興教大師。高野山大伝法院・密厳院などを建立し、金剛峰寺とともに座主を兼ねたが、一山の反対にあい根来(ねごろ)に移った。著「密厳諸秘釈」など。密厳尊者。

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百科事典マイペディアの解説

覚鑁【かくばん】

新義真言宗,大伝法院流の祖。諡号(しごう)は興教(こうぎょう)大師。肥前(ひぜん)の人。高野(こうや)山に1132年大伝法院を創建,金剛峯(こんごうぶ)寺座主(ざす)を兼ねた。
→関連項目相賀荘金剛峯寺真言宗真言宗智山派真言宗豊山派根来寺

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

覚鑁 かくばん

1095-1144* 平安時代後期の僧。
嘉保(かほう)2年6月17日生まれ。新義真言宗派の祖。京都仁和寺(にんなじ)成就院の寛助の灌頂(かんじょう)をうける。密教諸流をまなんだのち,鳥羽上皇の帰依(きえ)をうけ,高野山に大伝法院をひらき,院主と金剛峰寺座主(ざす)をかねた。保延(ほうえん)6年金剛峰寺方の衆徒におそわれ根来山にのがれ,円明寺をたてた。康治(こうじ)2年12月12日死去。49歳。肥前藤津(佐賀県)出身。俗姓は伊佐。法号は正覚房。諡号(しごう)は興教(こうぎょう)大師。著作に「五輪九字明秘密釈」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

かくばん【覚鑁】

1095‐1143(嘉保2‐康治2)
平安後期の僧侶。正覚坊と号する。諡号(しごう)は興教大師。新義真言宗の開祖。肥前国藤津荘(佐賀県内)出身。13歳のころ上洛して同荘の領主仁和寺の成就院寛助につき,その後興福寺東大寺に勉学したといわれる。1114年(永久2)高野山に登り,往生院青蓮や最禅院明寂に師事した。21年(保安2)寛助僧正より伝法灌頂を受けた。京都の貴族と交わり,伝法会の再興に尽力し,32年(長承1)鳥羽上皇の御幸をあおぎ,高野山上に院御願寺大伝法院を完成した。

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大辞林 第三版の解説

かくばん【覚鑁】

1095~1143) 平安末期の真言宗の僧。諡号しごう、興教大師。肥前の人。新義真言宗の祖。仁和寺で密教を学ぶ。高野山に大伝法院を建立し、金剛峰寺の座主を兼ねたが、反対にあい紀州根来ねごろに移り、円明寺を建立。その事相の門流は伝法院流という。著「五輪九字明秘密釈」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

覚鑁
かくばん
(1095―1143)

平安後期の真言宗の僧。肥前(佐賀県)の人。平将門(まさかど)の末裔(まつえい)。嘉保(かほう)2年6月17日に生まれる。仁和寺(にんなじ)、醍醐寺(だいごじ)、南都、高野山(こうやさん)で、唯識(ゆいしき)、三論(さんろん)、密教を学ぶ。保安(ほうあん)(1120~24)の末、請われて紀伊(和歌山県)石手(いわて)の神宮寺に住し、大治(だいじ)(1126~31)の初め、寺号を伝法院(でんぽういん)と改め、学侶(がくりょ)36人を置いた。この根来山(ねごろさん)は狭隘(きょうあい)であったので、高野山に大伝法院を建立し、1132年(長承1)鳥羽(とば)上皇の臨幸を得て、初めて伝法大会(でんぽうだいえ)を行った。34年、大伝法院と金剛峯寺(こんごうぶじ)の両座主(ざす)を兼ね、高野山全体を統轄しようとしたが、金剛峯寺、東寺、醍醐寺の衆徒の反抗で、翌年辞して密厳院(みつごんいん)に退居した。40年(保延6)金剛峯寺衆徒によって密厳院が破却されたので、根来山に退いて円明寺(えんみょうじ)を建て、終焉(しゅうえん)の地とした。彼は諸流細分した真言の事相(じそう)を大成し、大伝法院流を創唱して、新義真言の祖とされた。康治(こうじ)2年12月12日示寂(じじゃく)。自性(じしょう)大師の号を賜るが、叡山(えいざん)の反対で停止。興教(こうきょう)大師と勅諡(ちょくし)された。『密厳諸秘釈(みつごんしょひしゃく)』『五輪九字秘密義釈』など撰述(せんじゅつ)が多数ある。[中尾良信]

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世界大百科事典内の覚鑁の言及

【いろは歌】より

…〈いろは歌〉の全文は承暦3年(1079)本の《金光明最勝王経音義(こんこうみようさいしようおうぎようおんぎ)》に万葉仮名で書かれているのが現存最古で,1109年(天仁2)に源信僧都が〈いろは〉の作者を論じたという。1143年(康治2)に死んだ覚鑁(かくばん)は《伊呂波釈》《伊呂波略釈》を著し,1142年西念が〈いろは〉を沓冠に置いた〈極楽願往生歌〉を詠んでいる。〈いろは〉はそのころから広く行われ,音節の順序を示すために用いられるようになり,《色葉字類抄》《伊呂波字類抄》《節用集》などいろは引きの辞書も作られるにいたった。…

【紀伊国】より

…このような権貴による熊野・高野参詣の盛行にともなって,熊野では三山を統轄する検校―別当の組織が整えられ,高野山では壇上伽藍の整備や多くの子院の建立が進められ,いずれも中世寺社権門として不動の地位を確立した。院政期の高野山においてめざましい活躍をしたのが覚鑁(かくばん)である。覚鑁は真言密教を浄土教的に解釈する教義をうちたて,鳥羽上皇の絶大な帰依をえて山内に伝法院(のち大伝法院)を建立し,ついで金剛峯寺座主を兼帯した。…

【金剛峯寺】より

…12世紀初頭には,従来の三綱(さんごう)に代わって年預職がおかれ,預,行事とともに〈三沙汰人〉と称され,教団の自治機関が整った。ついで覚鑁(かくばん)が出て,真然のときに創設された大伝法会を中興して大伝法院を建立し,春秋2季のおのおの50日間の伝法大会を行った。覚鑁は1134年(長承3)東寺長者の金剛峯寺兼務を排して,みずから本寺(金剛峯寺),末院(大伝法院)の座主に就任し,金剛峯寺検校良禅を追放し,弟の信恵を補任したため,東寺と金剛峯寺衆徒の反感をかい,40年(保延6)根来(ねごろ)寺に移った。…

【新義真言宗】より

…高野山を拠点とする空海以来の真言宗(古義真言宗)に対し,紀州根来(ねごろ)寺に拠った覚鑁(かくばん)を宗祖とする一派。現在は京都智積(ちしやく)院を本山とする真言宗智山派と,奈良県桜井市の長谷寺を本山とする真言宗豊山(ぶざん)派が二大宗派で,根来寺は別に新義真言宗本山を称する。…

【真言宗】より

…こののち事相(灌頂・修法などの具体的な儀式作法)面で,小野曼荼羅寺の仁海が大成した小野流と広沢遍照寺の寛朝が大成した広沢流に分かれ,さらに2流はおのおの6流ずつに分派して〈野沢(やたく)根本十二流〉とも称せられるほど,その分化ははなはだしくなった。平安時代末期に至って覚鑁(かくばん)(興教大師)があらわれ,高野山上に大伝法院などを建立して,真言教学の再興,全密教法流の統一をはかった。また覚鑁は当時流行していた浄土教に対抗して,秘密念仏を唱えた。…

【根来】より

… 根来寺山内での漆器の生産は,1585年(天正13)の羽柴秀吉による根来攻略で終わりをむかえ,以後根来寺は再興されたものの漆器の生産は行われていない。根来寺のはじまりは普通には,興教大師覚鑁(かくばん)が高野山を追われてこの地に隠棲し円明寺を興した1140年(保延6)とされるが,隆盛するのは,高野山大伝法院の学頭頼瑜(らいゆ)が勅許を得て高野山と袂を分かち,高野山にあった覚鑁ゆかりの大伝法院と密厳院を根来に移して新義真言宗の根本道場をさだめた1288年(正応1)以降のことである。したがって真に〈根来〉と称すべきものは,この時から秀吉の根来攻略までの約300年間に山内で生産された漆塗製品に限られるべきであろう。…

【根来寺】より

…根来山大伝法院と号し,根来寺は通称。覚鑁(かくばん)が1132年(長承1)高野山に建てた大伝法院に始まる。34年院宣により覚鑁が大伝法院と金剛峯寺の座主(ざす)を兼務したことで,金剛峯寺の衆徒と争いを生じ,覚鑁は40年(保延6)高野山からこの地に退き,新たに一乗山円明寺を興した。…

※「覚鑁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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