藤村紫朗(読み)フジムラ シロウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「藤村紫朗」の解説

藤村 紫朗
フジムラ シロウ


肩書
貴院議員(勅選)

旧名・旧姓
旧姓=黒瀬

別名
初名=萱野 平八 前名=萱野 嘉右衛門(カヤノ カエモン) 通称=四郎 字=信卿

生年月日
弘化2年3月1日(1845年)

出生地
肥後国熊本城下町寺原町(熊本県)

経歴
文久2年上洛、勤王志士と交わり、3年親兵に選ばれ、8.18の政変で三条実美ら七卿と長州へ西下、脱藩して元治元年長州軍の軍監となり禁門の変に参加、敗れた。慶応3年鷲尾隆聚の高野山挙兵に参加。明治維新に際して初めて藤村姓を称する。明治元年徴士・内国事務局権判事から軍監となり北越へ出征。2年監察司知事、次いで兵部省に出仕し京都府少参事、4年大阪府参事。以後山梨県令、同県知事、愛媛県知事を務めた。23年国会開設とともに勅選貴院議員。29年男爵

没年月日
明治42年1月4日

家族
長男=藤村 義朗(男爵・貴院議員)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

朝日日本歴史人物事典 「藤村紫朗」の解説

藤村紫朗

没年:明治42.1.5(1909)
生年:弘化2.3.1(1845.4.7)
明治期の地方行政官。熊本藩士黒瀬市右衛門,登千の次男。萱野太平の養子となる。初め嘉右衛門と称した。尊王の志士として国事に奔走,文久3(1863)年七卿落ちに同行し,翌元治1(1864)年脱藩して長州軍に参加。慶応3(1867)年王政復古クーデタに呼応して高野山に挙兵。倒幕活動の間,多くの変名を用いたが,維新後藤村紫朗に定める。明治1(1868)年明治新政府の徴士となり,多くの官職歴任。6年1月,山梨県に権令として赴任し,7年10月同県令に昇進,20年3月愛媛県知事に転じるまでの約14年間山梨県の行政を指揮。教育,勧業,土木事業など多方面で急進的な文明開化政策を一貫して進める。その際,棟梁小宮山弥太郎,松木輝殷らを登用して,「藤村式」と称される擬洋風建築を数十棟建設した。23年貴族院議員,29年男爵。実業家・政治家の藤村義朗は長男。<参考文献>植松光宏『山梨の洋風建築』

(石田潤一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤村紫朗」の解説

藤村紫朗 ふじむら-しろう

1845-1909 幕末-明治時代の武士,官僚。
弘化(こうか)2年3月1日生まれ。肥後熊本藩士。尊攘(そんじょう)運動にくわわる。維新後,藤村姓を名のる。軍監,兵部少丞,大阪府参事,山梨県,愛媛県の知事などをつとめ,明治23年貴族院議員。明治42年1月5日死去。65歳。本姓は黒瀬。通称は平八,嘉右衛門,四郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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