朝日日本歴史人物事典 「藤村紫朗」の解説
藤村紫朗
生年:弘化2.3.1(1845.4.7)
明治期の地方行政官。熊本藩士黒瀬市右衛門,登千の次男。萱野太平の養子となる。初め嘉右衛門と称した。尊王の志士として国事に奔走,文久3(1863)年七卿落ちに同行し,翌元治1(1864)年脱藩して長州軍に参加。慶応3(1867)年王政復古クーデタに呼応して高野山に挙兵。倒幕活動の間,多くの変名を用いたが,維新後藤村紫朗に定める。明治1(1868)年明治新政府の徴士となり,多くの官職を歴任。6年1月,山梨県に権令として赴任し,7年10月同県令に昇進,20年3月愛媛県知事に転じるまでの約14年間山梨県の行政を指揮。教育,勧業,土木事業など多方面で急進的な文明開化政策を一貫して進める。その際,棟梁小宮山弥太郎,松木輝殷らを登用して,「藤村式」と称される擬洋風建築を数十棟建設した。23年貴族院議員,29年男爵。実業家・政治家の藤村義朗は長男。<参考文献>植松光宏『山梨の洋風建築』
(石田潤一郎)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報