デジタル大辞泉 「藤村」の意味・読み・例文・類語 ふじむら〔ふぢむら〕【藤村】 姓氏の一。[補説]「藤村」姓の人物藤村作ふじむらつくる藤村富美男ふじむらふみお 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典 「藤村」の意味・読み・例文・類語 ふじむらふぢむら【藤村】 東京都文京区本郷三丁目にある和菓子屋。寛永三年(一六二六)創業。ようかん・黄味しぐれが有名。[初出の実例]「『此菓子はいつもより上等ぢゃないか』と藤村の羊羹を無雑作に頬張る」(出典:吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉四) ふじむらふぢむら【藤村】 姓氏の一つ。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
日本歴史地名大系 「藤村」の解説 藤村ふじむら 福島県:河沼郡柳津町藤村[現在地名]柳津町藤只見(ただみ)川が村南を西から東に流れ、村東で大きく迂回して北流する。北は片門(かたかど)村(現会津坂下町)、東の只見川対岸は朝立(あさだち)村(現同上)、南対岸は八坂野(やさかの)村。村中を会津三方(さんぽう)道路改修後の越後街道が東西に通る。本村の南西四町に端村上藤(かみふじ)が、本村の北東四町に同大牧(おおまき)が、本村の西一里に同長窪(ながくぼ)がある。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「たゝし藤椿かつやともに役也」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に富士とあり、高一九七石余。 藤村ふじむら 岐阜県:恵那市藤村[現在地名]恵那市武並町藤(たけなみちようふじ)南流する藤川両岸の平地と、それをとりまく山地からなる。南西に権現(ごんげん)山(五九一・九メートル)がある。北の木曾川対岸は河合(かわい)村、東は久須見(くすみ)村、南は竹折(たけおり)村に接する。関ヶ原の合戦後、大給松平氏(岩村藩)領で、以後幕末まで同藩領。正保三年(一六四六)岩村藩主丹羽氏定は弟氏春に一千石を分知、村内深萱(ふかがや)がその知行地となったが、元禄一五年(一七〇二)再び岩村藩領に復する。慶長郷帳に府中村とあるのが当村と思われ、高九六二石余。 藤村ふじむら 三重県:度会郡大宮町藤村[現在地名]大宮町永会(えいかい) 藤古里(ふるさと)村の南にある。藤川上流の山間地。南に神前(かみさき)浦(現南島町)に通じる藤坂(ふじさか)峠があり、峠に連なる峰々は古代伊勢・志摩の国境。古来神領で七箇(しちか)御園のうちであったといわれる。「建久三年皇太神宮年中行事」に「十二月度ハ藤郷役」「幣使米、藤郷勤」「人夫ハ自藤郷進」とみえ、滝原(たきはら)宮参向の例幣使下向に郷役が課せられている。 藤村ふじむら 三重県:一志郡白山町藤村[現在地名]白山町藤雲出(くもず)川支流藤川との合流地段丘上にある。藤川を挟んで左岸の飛野(とびの)と右岸の東出(ひがしで)・西出の集落からなる。北は山田野(やまだの)村、南東は雲出川を隔てて南家城(みなみいえき)村。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「藤之郷」と記し、高三四九石八斗。旧津藩封地郷村名及草高取調帳(三重県立図書館蔵)によれば、幕末頃には新田開発により二一石余の増加がみられる。近世は津藩領。「宗国史」によれば、寛延年中(一七四八―五一)の家数は七〇、人数二一五、牛二六。 藤村ふじむら 高知県:中村市藤村[現在地名]中村市藤田野川(たのかわ)村の東、麻生(あそう)村の北にあり、後(うしろ)川中流、内川(うちかわ)川が北西から流れ込む合流点下流左岸の村。「土佐州郡志」は「去中村北一里、伊(猪)野々・七夕・高(馬)木三村総曰藤村、(中略)其土多砂礫」と記す。天正一八年(一五九〇)の七夕村藤之村猪野村馬木村地検帳によれば藤之村の検地面積一七町一反、屋敷数二二うち居屋敷一一。屋敷のうちには宗興寺・自得院が含まれる。「藤城詰二ノ塀西北共ニ」として検地されている藤城の城主は沖長四郎といわれる。江戸時代は元禄郷帳によると本田高一六五石余。宝永(一七〇四―一一)頃の家数二三、土産の「白土」は「宜甕器、尾戸陶工用之」という(土佐州郡志)。 藤村くずふじむら 千葉県:夷隅郡大多喜町藤村[現在地名]大多喜町葛藤小田代(こただい)村の北、養老(ようろう)川と支流葛藤川の合流地付近に位置する。文禄三年(一五九四)九月三〇日の伊保庄葛藤検地帳(葛藤区有文書)では、田八町一反余・畑五町二反余、名請人二三。同年の上総国村高帳では高一〇一石。延宝七年(一六七九)の検地帳(四倉家文書)には佐是(さぜ)郡高滝(たかたき)庄葛藤村とみえ、田八町九反余・畑屋敷八町三反余。 藤村ふじむら 兵庫県:城崎郡香住町藤村[現在地名]香住町藤矢田(やだ)川を挟んで中野(なかの)村の対岸南方に位置する。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ふしの村」とあり、当地には「ふし」殿・同与三兵衛殿などが住していた。近世の領主の変遷は矢田村に同じ。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高六〇石余。出石封内明細帳によれば拝領高七二石余、ただし不足高一二石余があり、免状表高は六〇石余、免状表高の内訳は屋敷九升・麻畑九升・田方二九石余・畑方三〇石余、ほかに古新発高一一石余・新発高三斗余、家数一〇・人数五四。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報