藤沢本郷(読み)ふじさわほんごう

日本歴史地名大系 「藤沢本郷」の解説

藤沢本郷
ふじさわほんごう

[現在地名]藤沢町藤沢

西口にしぐち村の東にあり、南は蚕飼こかい山に続く峰々、中央を保呂羽ほろは川が粉香木こなこうぎ川などを集めて藤沢川(新地川)となって東から北西に流れ、大平おおだいら川と西口村境の落合おちあいで合流して黄海きのみ川となる。陸奥本吉もとよし郡方面から当地を経て千厩せんまや(現千厩町)岩谷堂いわやどう(現江刺市)、さらに和賀郡安俵あひよう(現東和町)へ至る道が通る(仙台領道程記)。初め当地方は八沢やさわ郷といわれ、嘉慶元年(一三八七)清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)の遊行上人が当地で没し藤勢とうせい寺が建てられたことにちなみ、藤沢郷と改められたという。藤沢郷は当村・西口・徳田とくだ新沼にいぬま保呂羽大籠おおかごを含む呼称で、当村はその中心(本郷)にあたるとされる(封内風土記)。郷名を改めた時期については、一説に明徳四年(一三九三)遊行一二代尊観巡国の折藤勢寺に藤沢道場の号を与えた時ともいわれる。

一五三〇年代頃の熊野山新宮勧進状(熊野速玉大社文書)に藤沢とみえ、同地の源舟・重秀・久秀が一貫文を紀伊熊野新宮へ寄進している。天文一二年(一五四三)三月四日には藤沢村内三千刈が葛西氏から軍功の賞として亀卦川弥市郎へ宛行われ(「葛西高信宛行状」大原亀卦川文書)、翌一三年八月七日には同じく三千刈が軍功により熊谷次郎に与えられている(「葛西高信宛行状」気仙沼熊谷文書)。元亀二年(一五七一)葛西氏と大崎氏との佐沼さぬま(現宮城県登米郡迫町)での合戦後には、三千刈が加増分として熊谷図書に与えられた(同年七月二日「葛西晴信宛行状」同文書)。その後も天正二年(一五七四)四月二日には本吉大膳大夫の反乱の際の軍功により、千葉主計に三千刈(「葛西晴信知行宛行状写」大原千葉文書)、小野寺五郎左衛門通次に四千刈が加増分として宛行われ(「葛西晴信知行宛行状写」本吉小野寺文書)、同五年には本吉氏と長部氏の争いを仲裁した功により五千刈が鳥畑弥九郎に宛行われた(同年三月一一日「葛西晴信知行宛行状写」大原鳥畑文書)。同一六年の浜田安房守の反乱後には、五千刈が小野寺三郎左衛門に加増分として与えられている(同年六月七日「葛西晴信知行宛行状」藤沢小野寺文書)

慶長五年(一六〇〇)の山岡重長以下人数書(伊達家文書)には「喜庵牧野右兵衛藤沢せんまや」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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