仙台城下(読み)せんだいじようか

日本歴史地名大系 「仙台城下」の解説

仙台城下
せんだいじようか

慶長六年(一六〇一)一月、仙台城の普請とともに広瀬川左岸に建設された城下町。仙台藩六二万石(のち享保期には実高一〇〇万石)の治府で、数度の拡張期を経て広大な敷地に屋敷割が行われる。仙台藩は膨大な家臣団を擁していたこともあり、城下に占める侍屋敷の割合は高く、また有力家臣の屋敷は広大で、たとえば一門格の角田石川氏の屋敷は五千三三七坪であった。一方商人町の数は比較的少なく、いわゆる町方二四町と、寺社門前の数ヵ町にすぎない。その商業発展についても、物産にみるものがなく、加工産業も振るわず、また豪商といわれる商人の多くは関西商人であり、地場商業の隆盛は望みがたいものであった。この背景には藩財政が領内の余剰米を江戸で換金するという買米制に強く依存したことが大きな要因としてあったと思われる。ただし商人町の一町単位の規模は大きいものが多かった。仙台城下は仙台城のある広瀬川右岸の川内かわうちおよび愛宕あたご山方面と、左岸に分けられ、左岸一帯が城下の中心となる。川内は南半部以南が城域で、北部に大身侍・足軽衆・職人などが配された。左岸側はほぼ南北に走る奥州街道と、それに直交する大町おおまち通によって四分される。しかし敷地の大半は東番丁・北番丁などの侍屋敷で、東部より南東部にかけてと、北部には寺町や足軽屋敷が配された。城下出入口のうち南の河原かわら町、北のつつみ町、北西の八幡はちまん町、東端の原町はらのまち(城下外)などには木戸の付いた町切という柵が設置された。

奥州街道は城下南より広瀬川を広瀬橋で渡り、すぐに城下指入口の河原町に入り西折・北折し、なお数度の屈折を経て大町通と直交する。その交点を芭蕉の辻と称し、以北は臨済宗東昌とうしよう寺門前まで直進し、そこで北東に折れる。同街道は仙台城大手門に向かわず、同時に城から遠くもなく、街道沿いには城北の一部を除いてすべて商人町が割付けられ、通町とおりまち通とも称された。商人町はほかに大町通、国分こくぶん町・みなみ町などの通町通以西の一画、北西部の大崎八幡神社前の八幡町および北東部の東照宮前のみや町、また川内北東部の亀岡かめおか八幡神社前の亀岡町などの二九ヵ町。橋は広瀬橋ほか、仙台城を大町通と結ぶおお(仙台橋)、その北の大工だいく(中の瀬橋)、またよどみ橋や評定所ひようじようしよ橋などがあった。広瀬橋架橋前は長町ながまち渡戸があり、仙台開府前後にはその少し上流に宮沢みやざわ渡戸、その上流に誓願寺せいがんじ渡戸・こめふくろ渡戸、八幡町方面には角五郎つのごろう渡戸(牛越渡戸)があった。また水運として塩竈の湊より城東の城下外の苦竹にがたけ村に通じる舟入堀と舟曳堀があり、城下への米の輸送に利用された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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